12月31日の大晦日、私は母を亡くしました。
享年77歳、死因は老衰だと医師から告げられました。
この数年、正確には会社を辞める1年前に当たる30代後半からの約6年間、
私は家族と共に認知症を発症した母の介護をしてきました。
母が亡くなる今まで、このブログでその事には全く触れる事は
ありませんでしたが、結果的にこのブログは私が介護生活を送る中での
息抜きの記録の様なものになりました。
昨年最後に受けた介護認定の結果は「介護度5」。
モノを飲み込む力が弱くなり、全てにおいて100%介助無しでは
生活出来ない状態の母を見た担当者が判断した結果でした。
最後の1年は表情も乏しくなり、殆ど言葉を発する事もありませんでしたが、
綺麗事でなく時折見せてくれる母の笑顔だけが、日々の介護に追われる私の
心の支えになりました。
母の最後の1日
その日は朝から、訪問看護の看護師さんに栄養剤の点滴をしてもらう
予定の母の側に居てもらうために、滅多に家に居る事のない弟を呼びつけ、
私は妹と共にお正月の買い出しに出掛けました。
はじめは弟に車を出させ妹と2人に買い出しを頼もうと思っていたのですが、
ふと、たまには弟に母の世話をさせるもの悪くないかと思いつき、
結果的にその日の数時間が最初で最後の弟の介護になりました。
人が亡くなると不思議な符合があるのだと良く聞きますが、この弟の
介護の件を始め、母の死にも多くの符合がありました。
例えば家を新築してから9年間、一度も新しくした事が無かった畳表を
替えた事もそうです。
12月に入った頃、急に愛猫のるぅが和室に置いてある母の桐の箪笥におしっこを
繰り返し引っ掻けるようになり、新年を迎えるにあたり余りにもみっともないという
事で、年末ギリギリに1階の和室と2階の母の寝室だった部屋にある琉球畳を
新しく張り替えてもらったのです。
それに合わせ染みが出来てしまった桐の箪笥も職人さんに削りに出し、
母が亡くなる前日にまるで新品のようになって戻って来ていました。
その上、いつもならグダグダと元旦の朝まで掛かっていた大掃除も、去年に
限っては何故か28日には完璧に終わっていたおかげで、母が亡くなる当日の
その瞬間まで私は父が腰が痛いと投げ出した障子の張り替えをしていて、
気が付くと結果的に母を迎える事になった1階の和室は、何から何まで
新しくお客様がいついらしても恥ずかしくない状態になっていました。
母の遺影とお骨が祭壇に置かれて居るその部屋を見る度に、我々が慌てて
恥を搔かないように母がるぅにおしっこをするようにし向けたとしか思えず、
今考えるとそれは、何も口を聞けなくなっていた母からの
「日頃から常に恥ずかしくない状態を保つ事を心掛けなさい」という
最後の教えの様な気がしてなりません。
そして何よりも母らしかったのは、死の数時間前に摂った最後の食事が、
我が家の行き付けの谷中の寿司屋の大将が握ってくれた鮨だった事です。
食いしん坊だった母は生前、自分の最後の晩餐は大将が握ってくれた
お鮨が良いのだと事あるごとに言っていて、結局その発言通り、
まぁさすがに舎利は食べられなかったのですが、固めに炊いた白がゆの上に
好物の鮨ネタだった穴子とウニとトロを乗せたものを口にしたのが、本当に
母の最後の食事になった事です。
その上、30日にお正月の買い出しが全て完了していたお陰で、我々家族も
新年にはいつもと同じ美味しい食事を食べる事が出来たのです。
もし母が一日でも早く亡くなっていたら、明らかにいつもと違う新年の食卓を囲んで
いたことを考えると、この事にも母の強い意志が感じられ年々母の味に近づく
妹が作るお雑煮を口にする度に思わず涙が零れ、死しても尚、家族を想う
母親の愛情の深さと凄さを感じずにはいられませんでした。
時間が経つに連れ強く想うのは、母を病院からでなく家から送り出せて
あげられて、本当に母もそして我々家族にとっても本望だったという事でした。
実は、亡くなる当日の朝も少し咽せ込みが有ったために、訪問看護の
看護師さんから入院を勧められていたのですが、年末年始とくに正月を
病院のベッドで寂しく迎えさせるのが余りに可哀想で可哀想で・・
どうしても聞き入れる事が出来ませんでした。
母が家にいる事を心から望んでいる事は、口にしなくても痛いほど判って
いましたし、それが家族と家を心から愛した母の意志だという確信がありました。
結果的に母は亡くなってしまい、母を失ったその瞬間はもし入院させていれば
状況は変わったのだろうか・・・と「たら」「れば」を繰り返してはいましたが、
もし病院で急変したならば臨終の瞬間にも立ち会えず、密室で何があったのかも
知らせられず、もしかしたら母の死に関して他者を恨む事になっていたかも
知れない・・と思うと、母が切望した家での臨終は母にとっても我々家族に
とっても、最良の選択だったのだと心から思えるようになっていました。
そして何よりも、年が明けたら食事が取りづらくなった母に少しでも長く生きて
もらいたいと胃ろうの手術を受けさせるのだと決めていた私の気持ちを察し、
その事を何よりも嫌った母が自ら自分の人生に幕を引いたのだと思えて
来たのです。
母が亡くなったのは30日の深夜、日付は31日に変わったばかりの午前2時の
事でした。
火葬場も正月三箇日は休業する上に、今年は4日が「友引」だという事でお休み。
お陰で31日から5日の朝までの5日もの長い間、横たわる母の傍らで眠り、
母の顔を見ながら葬儀までの心の準備が出来た事は、余りに突然の事に取り乱す
ばかりの私たち家族にとっては何よりも有り難い事でした。
その間、今となっては遺品となってしまった母の持ち物の中から、
母がひと針ひと針丁寧に縫ったパッチワーク作品や、オシャレだった母が
若い頃にオーダーで作った帽子やパンプス、嫁入り道具と一緒に持ってきた
何百冊もの歌舞伎や演劇のパンフレットを一点ずつ丁寧に取り出し、
生前の母が最後まで愛用していた母の身体に合わせて作ってもらった椅子の
上にそれをディスプレイをして、次々に母に会いに訪れる親戚や友人を出迎えました。
旅行好きだった母の独身時代のアルバムと共にトランクに収められていた
一眼レフのカメラも飾り、その傍らには母が旅行先で撮った写真を半分は独身時代、
残り半分は結婚してからのものと分け、A3版のアクリルフレームに挟み同じく椅子に
飾ると、それを見た親戚や友人が口々に懐かしい母との旅の思い出話を
横たわる母に向かってしてくれました。
その風景はよくある通夜までの重い空気とは対極の、涙と同量の笑いもある、
温かで穏やかな空気に包まれていて、死化粧をしている母の顔が何度も
笑っているように見える程、母が愛した楽しく賑やかな風景でした。
人を愛し、人のためにトコトン尽くし、何よりも人に囲まれているのが
似合う母でした。
3人も子を成しながらも、一人も本当の孫を抱けなかった母ですが、
早くに亡くなった叔母の孫達が常に我が家に入り浸り、その孫のような
子供達が母を思いワンワン泣いてくれている姿を見て、母もきっと
うれし泣きをしているはずだと、今は18歳になった最も溺愛した
その子の涙を見て確信しました。
いつかはこの世から居なくなる事の儚さや切なさ、今を生きる事の大切さは、
大きな犠牲の上にしか成り立ちません。
この子達が初めて体験した自分を心から愛してくれた母の死は、10歳で祖母を
亡くした私がそうだったように、この子達の心に言葉では教えられない大切なものを
遺してくれたはずです。
・・・とここまで書いてきて、こうして自分が母の事を言葉に出来るまでに、
25日もの時間が必要だった事に気付きました。
確かに何もかも初めての連続で、PCに向かう時間など取れなかった事も
有りますが、キーボードを前にしても指が動かず、車を運転していても
母と行った思い出の場所の前を通ったり、通い続けた病院を窓の外に
見つけては、母の事をあれこれ思い出し車を止めて一人で声を上げて
泣いてしまう様な事を日々繰り返していた為に、
冷静に母との時間を振り返る事など出来なかったのです。
それが、来月に控えた四十九日法要に向かい、母の思い出の品として
母の写真を入れたフォトフレームを入れるケースに刺繍をしたり、
お香典返しの為に参列して下さった方達の名前を整理しながら、その人が
喜びそうな品を選んだりしている内に、沢山の人たちに愛された母の姿を
思い出し、自然に気持ちが落ち着いてきたのです。
それと、21日に前々から予定していた蜷川演出のシェイクスピアの
「冬物語」を観に行った際に、本作の翻訳をされた松岡先生のレクチャーを
聴く機会に恵まれ、この戯曲の根底に流れるものは「死んでしまった愛する
者にもう一度会いたいと願う切なる気持ち」なのだと話されているのを聞き、
自分が置かれている状況との偶然なる符合に驚きながらも、数百年もの間も
何も変わらない普遍的な人間の思いを再確認し、その後同行した友人を
車で送る道中、嵐のように母への思いを口にした事で自分の中で気持ちの
整理が少しずつ着いてきたのを感じました。
だからこそ、こうしてPCに向かい今まで話さなかった介護の事や、
母の最期について書く事が出来たのだと思います。
5日の通夜の日、我が家の菩提寺である中野の宝仙寺境内にある斎場に入ると、
そこには母が生前希望していた「生花」をふんだんに使って作られた祭壇がありました。
所謂「生花葬」です。
母が希望していた山百合は夏の花だという事で無理でしたが、生花市場が
閉まっている中で必死に集めて下さったカサブランカやカラー、胡蝶蘭が
母の棺の周りに溢れていました。
「こんな贅沢しちゃって・・」と少し困惑している母の顔が浮かびましたが、
母への感謝の思いを形にすると結果的にこれ以外考えられないというのが、
私と弟の最終的な答えでした。
棺の上には錦の布ではなく、母の作ったハワイアンキルトのタペストリーを
掛け、祭壇の上には大きく引き延ばした思い出の写真と共に、自宅でも
寝ている母の横にあった愛用の椅子と思い出の品々を置かせてもらいました。
葬儀の最中は母の好きだったクラッシックと石原裕次郎のCDを掛けてもらい、
出棺の時は弟に「お姉ちゃん、それってベタじゃねぇ?」と言われたのですが、
母の好きだった裕次郎の「我が人生に悔いなし」を流してもらいました。
確かに70歳目前で認知症を発症し、自分が思い描いていた老後とはかけ離れた
時間を過ごす事になってしまった母でしたが、最期の最期まで自分の育てた娘と
夫の手で世話をしてもらい、遺して行く我々にも十分な思い出と沢山の教えを
遺せた事に関しては、母も本望だったと思います。
でも・・・
寂しいです。
本当に心から母が恋しいです。
この気持ちは何があっても拭えないと思いますが、明るく楽しい事が
大好きだった母の気持ちに報いるためにも、遺された家族4人と猫1匹が
今まで通りの生活を取り戻さなければと切実に思っています。
余りにも私的で重いだけのこの長文を書き上げた今、これをアップして良いもの
なのか多少の躊躇はありますが、私が1歩を踏み出す為の必要な課程の一つ
だという事でどうかお許し下さい。
お詫びついでにずうずうしく、最後に一言。
お母さんへ
生んでくれてありがとうございました。
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