この舞台を見たのは実は3月の事。
見てすぐにレビューをアップしても良かったのですが、
どうも思い入れが強い芝居が対象だったからでしょうか、
思いが錯綜しすぎて逆に文章としてまとめる事が出来ない今日この頃・・・。
ことに藤原君の舞台となると、身を削って舞台に立っている彼の苦悩と
成長の記録なだけに、おいそれとは筆が進まないのです。(・・にしても遅いけど)
そんな理由が全てではないけれど、今更ですが舞台「ムサシ」レビューです。
井上ひさし書き下ろしの新作「ムサシ」を観てきました。
演劇鑑賞歴はそこそこ長いのですが、井上作品は「天保十二年のシェイクスピア」
「薮原検校」「道元の冒険」という3本の蜷川演出作品と、こまつ座公演の名作
「太鼓たたいて笛ふいて」の4本のみ。
そのいずれもが面白いとは判っていながら今までスルーしていた事を
思い切り後悔させるに十分な力のある作品ばかりでした。
そんな少ない鑑賞歴ながらもそれらの井上作品から感じたのは、
作品の根底に流れる人間同士の争いを愚かだと叫ぶ
人間の理性への問いかけ。
そもそも人間が生んだ諍いなのだから、唯一人間だけがその連鎖を
断ち切る事が出来るのだという祈りのような訴えでした。
パンフレットによると、元はと言えばこの舞台「ムサシ」という作品が
企画されたのは今から20数年前の1985年頃の事だったといいます。
今回と同様ホリプロの現会長である堀氏との間で、20数年前に一度
立ち消えになった企画が世紀を跨ぎ、20数年後の今こうして現実のものと
なった事は本当に稀なケースだとパンフでも言われている通り、
そうそうある事ではないでしょう。
しかし稀ではあってもたまたまそうなった訳ではなく、20年以上経ってもなお
今の時代が井上氏にこの作品を書き上げ世に送る事を望んだのだと
思えてなりません。
奇しくも志を同じにする全く同世代の蜷川さんとタッグを組んだ事も、
今もっとも勢いのあるゴールデンエイジの役者たちを牽引する2人の役者
(藤原竜也・小栗旬)がその戯曲の代弁者となった事も、
とても大きな意味があるのだという確信のようなものさえ感じます。
戯曲のベースになっているのは武蔵小説の代表作吉川英治の宮本武蔵。
余りにも有名なこのお話しですが、世間一般で通説とされている武蔵像の殆どは
吉川版武蔵から来るものだとか。
もちろん綿密な研究の元で書かれた小説だからこそ、これ程までに武蔵伝説の基本
とされるのでしょうが、今回の井上版「ムサシ」は吉川版をベースに小次郎が
巌流島の決戦で生き残ったという設定にして、その後の二人を描いた物語。
全く剣の流儀の異なる二人が戦った結果、心理面でも負けた形になった小次郎が、
ただひたすら己の屈辱を晴らす事だけを心の支えに長い年月をかけて
武蔵を捜し続け、ある山奥の小さな禅寺で再び武蔵の前に立った所から
この物語は始まります。
私は武蔵自体正直余り興味が無かったので、知っているのは武蔵が遅刻して
小次郎が巌流島で負けた事くらい(笑)一体それでいいのか??って程の
低レベルの知識ですが、この井上版ムサシはそんな私でも十分に楽しめます。
だって、物語の焦点は武蔵の剣術家としての一代記じゃないから。
予め言ってしまうと物語の焦点は、武蔵と小次郎この2人の対立する剣士を
通して人間の愚かさを観客に再認識させる事に有るから。
繰り返しにはなりますが、人間が出来そうで実はなかなか出来ないある決断
(この文章の上部に太字で書いた事)を観客一人一人が持つ人間の理性に
迫る事こそがこの戯曲の持つ意味であると強く感じるのです。
先日観た映画「重力ピエロ」の中でも、恨みの鎖を断ち切る事の重さについて
考えさせられましたが、先日北朝鮮が行った挑発的な核実験の事実を知った時に、
私の中で湧き上がったはっきりとした嫌悪感も、このムサシの中の断ち切るべき
負の連鎖なのだろうかと悶々と考え込んでしまいました。
唯一の戦争における被爆国としての日本に生きる一人として、
余りにもいたずらに核が扱われているこの事実をどう受け止めたら良いのか
今でも分からないで居ます。
この戯曲の中の井上さんの投げかけたメッセージが普遍的でシンプルなものだけに、
時代を超え今の時代に起きている問題とこうしてダイレクトに結びつき、
その度私に問いかけてくるのです。
犠牲になった過去の人々の後悔や思いを教訓にし、今に生かして行く事が
出来るのは人間に与えられた一つの能力であるという事を彼らに説くのは
愚かな事なのでしょうか・・哀しんでばかりいられないけれど、やはり哀しいです。
更に話は逸れますが、中学生の頃習った家庭教師の学生さんに日本最高学府の
現役学生と、ある有名大学の教育学部の学生さんがいました。
2人とも当たり前のように高偏差値の持ち主でしたが、決定的に違っていたのは
相手に言葉を伝えようとする姿勢でした。
かたや相手の目線にまで下がって自分の言葉でかみ砕いて伝えようとする
先生と、かたや自分が学んできたテキストそのままの言葉で機械的に教える
先生とでは当然の如く受け手の子供(私)の理解度は天と地の差ほどの開きが
ありました。
何でこんな話をしたかというと、井上戯曲の観客へのアプローチは圧倒的に
前者を思い出させるものだったから。
だからといって稚拙な表現などでは無く、人間の倫理を鋭く突いてくる
禅の教えのような深い言葉でしたが、特別な宗教観も持たず
禅にも明るくない私でも贅肉のないシンプルな井上さんの言葉(教え)は
心に響きました。
競争社会の現代、他者に勝つ事だけが自身の存在意義を確認出来る
唯一の方法だという考えの人も当然居るはずです。
勝つ事で得られるものは「富」?「名声」?
・・・それをまるまる否定する気にはなりませんが、この物語の中で
負の鎖に縛られている2人の剣士を必死に救おうとして教えを説くのは皆、
その「富」や「名声」に囚われた結果「後悔」という十字架を背負って初めて
己の愚かさに気付いた過去の人たち。
この事は物語の半ばで恐らく皆さんも気付く事なので、
分かって上で観ても十分楽しめるのですが、
余り詳しく書くとネタバレになるのでここまでにしますね。
というのも、来月7月18日(土)にWOWOWでこの「ムサシ」のオンエアが
決まったのです。
今更こんなレポをアップしたのはそういう事情もあるのですが・・・
この作品の主役たち、舞台の申し子「藤原竜也」と時分の名華「小栗旬」の共演は
随分前から話題になっていて、旬君ファンの友人もこのチケット取りのためだけに
藤原君のFCに入会する始末。
さすが花沢類!(こればっか)恐れ入りました。
そんなこんなで、私がFCで確保したのは2公演。
本当はもう少し抑える事も出来たのですが、敢えて綺麗事を言うと
プレミア舞台だけに私が繰り返し観るよりも、初めて2人に、
または蜷川演出に触れる人に1枚でも多く渡れば
その方が意味が有ると思ったから。(綺麗事に聞こえるけど結構本心です)
その位、井上戯曲×蜷川演出と藤原×小栗の組み合わせは
意味のある特別なものだと思いますし、観てみてやはりそう思いました。
70代半ばの世間的には老人力の域に入るお二方に共通するのは、
いつの時代もその時代と戦ってきた反骨スピリットを持たれた方だという事。
それをただ一言「元気だ」などと云う言葉で括ってしまうのは余りに愚かな事。
2人の背中を見た周りの誰もが己の姿勢をピン!と正し、
一緒に戦っていきたいと願うのは、その姿勢がどこからみてもブレが無く、
限りなく「本気」だからなのでしょう。
本気と本気がぶつかり合う至福を知っているキャスト、スタッフだからこそ、
例え戯曲の仕上がりがどんなにギリギリになってもそれを待てるのだろうなぁと、
舞台の上の彼らを観ていて伝わってきました。
しかもその待ち焦がれた戯曲の中に、井上さんの目を通して書かれた
役者一人一人の秘めたる一面が反映されていた時の喜びたるや、
まさに役者冥利に尽きるってもんでしょう。
戯曲が上がってきたのは本当ならば稽古の真っ最中であってもおかしくない
ある一日に、キャスト達が連れ立ち鎌倉の井上さんのお宅にお邪魔して
色々とお話しをした後だそうです。
その短い時間の中でそれぞれのキャストが舞台の上で「役」としてどう存在する事が
最も自然なのかを井上さんは素早く見抜かれていたのかも知れません。
例えば藤原君の「不器用さ」。
蜷川さんの言葉をお借りすれば、彼の少しストイックで芝居の事しか考えられなくて
自己表現が苦手な部分や、余計な事は一切口にしない所などが、
井上さんの目を通して今回の藤原武蔵像に見事に投影されていたと云います。
小栗君は、それに相対するように人からどう見られるべきかという
視覚的な部分に敏感な面が、剣さばきも華麗でスタイリッシュだという
小次郎の視覚的特徴に反映されていて、自己表現をすることに長けていて
饒舌という部分も、蜷川さん曰くまさに小栗!だったそうです。
三谷幸喜さんが「新選組!」で藤原君の中に剣の申し子沖田総司の
陽と陰を見たように、井上さんも彼らの秘めたる部分に光を当て
役柄の個性へと繋いだ事で、舞台での2人がより自然なものに映りました。
この舞台を観た後、まだ埼玉公演の最中だった頃、
毎週日曜の早朝に放送されている「ボクらの時代」という対談番組に、
藤原竜也、小栗旬、そして市川海老蔵という3人がやんちゃ対談と称して
2週に渡り出演した際に、上で言っていた2人の特徴が対談の中で
舞台の上以上に顕著に表れていてとても面白かった事を覚えています。
勿論、上演中だった事もあって特に藤原君は役の人格が抜けないようで、
とにかく普段よりも口数が少ない感じがして、そういう意味でもやっぱり不器用。
一方小栗君は、初対面の海老蔵さんにも気後れすることなく
自己アピールが出来ていて、コミュニケーション能力の高さを感じました。
日曜の朝、テレビの画面に映っていたのはまさに武蔵と小次郎そのものでした。
つくづく役者さんって面白い、そう思いました。
最後に少しミーハーな感想を・・・
今回観た2回の公演ですが、実は嘘みたいに対照的な座席だったのです。
最初に観た初日に近い日は2階の最後尾席、メリットは舞台全景が一望できる事。
そして2回目の時の座席はなんと1階最前列のセンター近く!
連れの友人と妹はそれぞれ地獄と天国的な思いをしたかも知れませんが、
両方を味わえた私としては、これ程意味のある極端な環境での観劇は
なかなか味わう事は出来ない!と思いました。
初見の時に目を奪われたのは小栗君の立ち姿の綺麗さ。
よくよく考えてみると、上で書いた人からどう見られるべきかと言う事に気を遣う
小栗小次郎の術中にまんまと嵌ったのだと今頃気付きました(笑)
その後に観た映画「クローズZERO II」でも思ったのですが、本当に漫画から
そのままトレースされて出てきたかのような小栗君の美しいシルエットは
いつ見ても惚れ惚れします。
思えば初回の時は藤原君に関しては彼の発する声に神経を集中させ、
目は小栗君ばかりを追っていた気がします。
そして2回目に最前列で妹と観た時には、偶然2人して同じ事を感じていました。
それは、2人とも気付くと目で追っているのは藤原君だったって事。
別に元はと言えば藤原君のファンだからとか、改めて近くで見た小栗君が
どうだったとかいう理由など一つもないのですが、改めて近くで見ると
どうしてもいつもの事ながら頭のてっぺんからつま先まで
神経を張り巡らしている藤原君の役への入れ込む様が
真っ先に目に飛び込んできてしまうのです。
一度目に入ると後は思うつぼ、延々彼の姿を追ってしまっていました。
今後は2人とも暫くの間舞台よりも映画の比重を増やすつもりなのか、
お芝居の予定は聞こえてきませんが、前にBunkamuraのレクチャーで
ギリシャ悲劇の翻訳者でもある山形先生が言われていた、
いい男が必要不可欠のギリシャ悲劇(笑)や、昔蜷川さんが演出された
ペール・ギュントをダブルキャストで上演した時のような
彼ら互いの向上心をあおるような企画で、またこの2人を観てみたいです。
本当に久しぶりに書いた舞台レビューでしたが、やっぱり生の舞台を
こうして文章で語るのは改めて難しいことなのだと感じました。
観劇から3ヶ月もの時間が経ってしまった少しカビ臭いレビューに
付き合って下さった方がいましたら、心より感謝申し上げます。
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