日記・コラム・つぶやき

2009/11/14

よ・う・こ・そ!

今週は怒濤の幕開けというか何というか・・・そう、とうとう生まれました甥っ子が。
しかも私の誕生日にsign03eye

月曜の明け方に妹のSOSコールで起こされ、寝ぼけ眼でハンドルを握り(!)
陣痛の始まった妹と旦那を乗せていざ病院へ。
慌ただしく分娩室へと移動すると、まるでドラマの中のような難産の修羅場を
覚悟していたにもかかわらず、分娩台に乗ってから約20数分後・・・
元気な産声と共にちょっと小さめの男の子が無事に生まれてくれました。
高齢出産の初産と言う事で色々と懸念していたこともあったのですが、
思ったよりも軽く・・・というか超安産の親思いの子でしたhappy01

P1020513_3

名前は「蓮」(れん)
手前味噌ですが、響きがキレイでなかなか良いのではとちょっとだけ
叔母バカ発揮・・・(笑)

でも小さなキミの為に私が最も尽力を捧げたのは、キミがしばらくの間
滞在するお部屋の準備なのだよ。
片付け下手のキミのママに代わって、埃にまみれて格闘する事2日間。
ピカピカに床を磨いて、大量のバンダナを縫い合わせソファカバーを作り、
ソファをベランダに引っ張り出して10年ぶりの天日干しをして万全の体制で
キミを待ってますnote

P1020469_2


同じ誕生日のよしみで仲良くしようね。

たくさんの人と出会い、たくさんの経験をして心が強くて優しく、
人としてバランスの良い子になって下さい。
何かに躓いた時はちょっとだけ手を貸してあげるから・・・
よく頑張ったね、ようこそ。

| | コメント (0)

2009/10/19

今年、何度目のさよならだろう

また1人、忘れられない人が逝ってしまった。

Gnj0910180507015p2
SANSPO.COM

音楽家、加藤和彦さんの突然の訃報に胸の中が波立つようにざわめいた。
好きだった地、軽井沢で自ら死を選んだ事を聞き呆然とした。

昭和40年代に生まれた私は加藤さんの作る音楽と共に大人になった。

子供の頃、繰り返しレコードプレーヤーで傷が付くまで聞きまくった
「帰ってきたヨッパライ」
小学校の合唱コンクールで歌った「あの素晴らしい愛をもう一度」
十代の頃、未知の時代を遡るように後聞きしたサディスティックミカバンドや、
「イムジン河」の過去の音源たち。
そして自分がスタッフとして携わった映画の中で流れた「悲しくてやりきれない」
他にも、竹内まりやのデビュー曲(確か伊勢丹のCMソングだった記憶が・・)や、
中川勝彦のプロデュースも加藤さんだったような気がする。

今から10年以上前になるだろうか、長年連れ添いその死を看取った
愛妻安井かずみさんが亡くなった直後に、ある場所で加藤さんの姿を見かけた。
それは三谷幸喜率いる東京サンシャインボーイズ「ショウ・マスト・ゴー・オン」の
客席だった。
献身的な介護を続け、つい先日最愛の女性を看取ったばかりの加藤さんに、
舞台の上で広げられる上質な喜劇がもたらした優しい空気は救いになった
だろうか・・すぐ後ろの客席で加藤さんの細身の身体が時折揺れるのを
見ながら、芝居の最中そんな事ばかり考えてしまっていた記憶がある。

安井さんの闘病中に洗礼を受け、クリスチャンになられたとの報道を
聞いていたせいだろうか、柔和なお顔がさらに穏やかなっていて愛妻の死
という大きな別れを経て、どこか人の生を達観しているようにも見えた。

Gnj0910180507015p3

大人になったらこんな夫婦になりたい。
銀座松屋の広告に人々が憧れる大人の夫婦像として起用されていたポスター
を見て若かった私は、加藤さんの持つ日本人男性には希有なエレガントで
優雅な大人の男の佇まいに漠然と憧れを抱いていた。

その加藤さんが自ら命を絶った。

「もう何もする事がなくなった・・・」と口にしていたそうだ。
鬱の傾向が強くなり、周りの人たちにお別れとも思えるような感謝の言葉と、
大切にしていたギターのコレクションを形見分けのように譲っていたことを
聞き、覚悟の死だったのだろうと思った。
何をやらせても器用にスマートにこなし、興味の赴くままそれを確実に
自分のモノにしていた加藤さんだっただけに、もう何かもやり尽くして
しまった感が強かったのだろうか・・とも思ったが、本当の答えはもっと
その奧にあるように感じた。

「孤独感」や「自分の才能の限界」との葛藤に破れた末の死であると
言うような報道を目にしたが、それにも一抹の違和感を感じた。
この感じは何だろう・・・と思い、ふと浮かんだのは伊丹十三さんの死だった。

2人とも俳優、ミュージシャンの壁を越え多趣味で多才な人だった。
伊丹さんに関しては、私が若い頃伊丹作品にスタッフとして関わった事もあり、
伊丹さんの人となりに少しは触れていたので、当時報道された内容が
彼が死を選んだ理由としては余りにも陳腐で相応しくないように思え、
十年以上経った今でも本当の理由は霧の中に隠れているような
印象がある死だった。
今回の加藤さんの訃報を耳にした時、その時の違和感が一気に蘇って来た。

しかし、その理由をこれ以上知ろうとする事は死者への冒涜であり、
葬式もいらないと遺した加藤さんを静かにおくる事だけが遺された者が
彼に出来る唯一のgiftだと思った。

音楽以外に一つ、グルメだった加藤さんが遺してくれたものがある。
それはペペロンチーノの作り方。
仕上げにパスタのゆで汁を加えるというコツを、加藤さんがテレビで
話されているのを観て以来、それを忠実に守っていることで
お店のパスタに近い味を楽しむ事が出来ているのは加藤さんのお陰だ。

何か変だけど、ペペロンチーノを作る度に加藤さんを想うだろう。

その時はキリリと冷えた白ワインと共に味わうようにしよう。
それも加藤さんが教えてくれた事だった。

加藤さん

さようなら、そしてありがとうございました。

| | コメント (0)

2009/10/08

よりにもよって、こんな日に・・・・

何年かぶりに大型台風が日本列島を縦断するように上陸する!と言われている今日。
よりにもよってそんな日に北海道への空の旅を計画してしまった私って・・・

P1020275
荷造りはいつもよりも順調に出来たのに・・・・


今も徐々に強まる雨音rain&風の音typhoonを聞きながら、ついつい暗い気分に・・
調子に乗って旅行用のトランクなんか買っちゃって、久々の空の旅に
ウキウキしていたのになぁ。
仕事で旅慣れしているツレは「8時の便なら機材(=飛行機の機体)は
既に羽田に戻ってスタンバイしてるだろうから、このままなら多分飛ぶんじゃねぇの」
と至って楽観的な意見を言ってくれたけれど、飛べたとしても台風自体が私たちを
追っかけるように北海道に上陸しそうな勢いだから、日程に色々と影響はあるはすだと
覚悟しなきゃなぁ〜sad

今回は2泊3日の予定で、そもそも今回の旅の主な目的はご両親の介護の為に
札幌に戻った昔仕事でお世話になった友人に会いに行く事でして、
その友人のたっての希望で函館で海の見える露天spaのある宿でノンビリとし、
旭川で人気の旭山動物園の動物たちpenguinを観て思い切り和み、最終日は彼女の
住んでいる札幌で1泊という内容の日程を立てたのですが、恐らく東京にいて
自由気ままにやっている私たちよりも、この旅行を楽しみにしている友人の為に
何としてでも北海道入りしたい気持ちですが、全てはこの台風の機嫌次第。
いつもみたいに肩すかしで海に逸れてくれないかしら・・・・

持参するお土産はこれまた友人のたっての希望で鎌倉豊島屋の「鳩サブレー」。
どうか渡せますように!!!

| | コメント (0)

2009/10/03

グローバルなROCK FES.って何?

先日試写会に行った記事をアップしましたが、その当日の夕方に
試写会に行く準備をしながらエムネのE・NEWSを観ていて、思わず一人で
バカみたいに声を上げてしまった事がありました。

それは、お隣の国のロックミュージシャンらしき歌手が言った一言。

P1010453

このキャンドルの一つ一つに世界平和への願いが込められている
そんなFUJI ROCKでの一コマ。
この灯りの周りには、自然発生的に色んな国の色んな人種が集い、
日本の苗場の空の下、音に包まれ思い思いに時間を過ごす・・・・
コレをグローバルと言わず、何をグローバルと言うのだろう・・?

続きを読む "グローバルなROCK FES.って何?"

| | コメント (0)

2009/09/23

お彼岸にて

Ca390358

秋の一日、家族でお彼岸のお墓参りに行ってきました。

御施餓鬼の時以来だから、ひと月ちょっとご無沙汰しちゃいました・・・
花粉症の身としては、花粉にまみれて辛いだけの春のお彼岸cherryblossomよりも、
過ごしやすい秋のお彼岸mapleの方が格段に楽なので助かります。

この日のお花は、母の好きだったカサブランカと白のトルコキキョウ。
それにクジャクソウを加え白で統一してみました。
お花の保存液を入れたので、いつもよりは持ちがいいかな?
写真にして改めてみると、古さが目立ち石材の欠けや風化が目に付くわ・・・
そろそろ重い腰を上げて、資料集めをしなきゃsweat01

大晦日に母とお別れしてから2度目のお彼岸を迎えても、まだここに
母が眠っているなんて信じられない気持ちが強くて戸惑います。
でも、親を亡くした方は皆さん同じような思いを抱えて過ごされている
んでしょうね。
来月には1周忌のお知らせを発送して、会食の手配なんかも進めなきゃ
年末なんてあっと言う間だし、やらなきゃいけない事ばかりなのに、
来月旅行なんて行っても良いのかしら?

来月は久々の国内旅行で、札幌に居る友人に会いがてら函館まで
足を伸ばす予定です。目的はもちろん美味しいモノ探索&旭山動物園。
どんなに忙しかろうが、自分のやりたい事は意地でも決行するこの性格を
一番分かっている母なら呆れつつも許してくれるかな?

最後は今朝、我が家の庭の隅っこにひっそりと、でも淫靡な美しさを
振りまきながら唐突に咲いていた彼岸花を。

P1020265

この花を見ると、百恵ちゃんの「曼珠沙華」という歌を思い出す
トコトン「昭和」な私(笑)。でもこれ名曲ですもの。

 

| | コメント (0)

2009/08/09

夜空を見上げて

P1020236

毎年恒例になりつつある、勝どきのタワーマンションから花火を観よう
パーティに行ってまいりました。

前の晩に仕込んで冷ましておいたシュークルートや塩豚、サラダを手に
タクシーに乗り込み、着付けをしてもらうためにある場所へ移動。
前日に駆け込んで着付けの予約をねじ込んでもらったのですが、
無料とは云え申し訳ないけれど驚くほどひどい着付けで、幸いな事に
今夜のホスト役の友人が今年から着付けを習っていたので、
私の着付けを観るなり矢も盾もたまらずに早速手直ししてくれて
何とか形になりましたが、来年からは手直しぐらい自分で出来なきゃ
情けないと思い、着付けを習う事に決めました!

そんな感じで着物がグズグズになりながら、ようやく汗だく状態で
到着し、手持ちの料理を広げてお鍋で温め直したりしているうちに、
間もなく真夏の花火の競演がスタート。
初めは火をかけているのでキッチンを離れられなくて、その上友人宅は
地上43階の為に眼下に見下ろす感じで打ちあげられるため、ベランダに
出ないと見えない花火もあり、料理もそこそこでベランダにビール片手に
繰り出し、何枚か写真撮影をしました。

今年は動画も撮ろうかなと思い立ち、カメラの動画機能で撮影したのがコレ。
・・と思ってアップロードしたかったのですが、どうもサイズが許容サイズを
超えていてアップできず断念。

代わりにコレで少しは花火の美しさは伝わると思いますので写真を。

P1020234

東京湾に架かるライトアップされたレインボーブリッジの上に
咲いた真夏の夜の花々たち


P1020222

東京湾に設置された浮島から打ちあげられているのがよく分かる

P1020231

これは、私たちが東京オリンピック招致祈願花火と言っていた
五輪をモチーフにした花火

どれも本当に綺麗で、気のせいか去年よりも大人っぽい
ベーシックな花火が多かった気がしました。

去年も後悔したのに、今年も飲み食い&おしゃべり、
それに何よりも花火に夢中で、ゲストの友人たちの写真を
今回も1枚も撮影出来ませんでした。
それにホスト役の旦那様が作ってくれる芸術的とも云える程
形が綺麗な(味も最高!)サンドウィッチも写真に収め忘れ残念。

1時間半ほどで花火の競演は終演を迎え、再び呑みに入る頃合いを
見て、再びお鍋のシュークルートに火を入れ、切って寝かしておいた
塩豚をフライパンでしっかりと焼き付け、白髪ネギとサンチュと共に
食卓へ。
鍋からトロトロになった豚バラを取り出し、一口大に切り分け、
大皿に豪快に盛りつけ熱々のうちに食卓へドン!
2皿共に一度小休止していた20人のゲストのお腹へと、気持ちの良い
ペースで消えて行きました。

気付くと再び汗だくで着崩れだし、再び本格的にお直しをしてもらって、
今夜は本当に友人に感謝です。

きっと今頃はホスト役の夫婦2人ともして、疲れて泥のように寝ている
所でしょう。
十分に休養を取って、来年もまた花火によんでね。

| | コメント (2)

2009/07/15

新盆を迎えて

関東のお盆は7月。

ということで、我が家も今週お盆を迎えました。
我が家にとっては、母の新盆にあたるということもあり、
特別に設えるものなどの見落としがないか心配で、早めに用意を
始めたのですが、デパートで確認すると何事もシンプルな傾向にある
東京のお盆は、新盆で新しく用意するものと言えば白いお迎え提灯のみ
ということでまずは一安心。

P1020182

早速、13日のお盆初日の朝からお盆の飾り付けを開始しました。

母が家事を離れて以来10年間ほど毎年やっている事とはいえ、
その都度前回の写真を見ながら飾り付けるところはまだまだ未熟モノの証拠coldsweats01
いつもは涼しげな和菓子を用意してお供えするのですが、今年だけは母の
好物だった麻布十番の豆源のおとぼけ豆をお供えしました。
そして、このところ毎年「白・グリーン・紫」の3色で構成していたお供えする
お花も、今年は白系にまとめ胡蝶蘭をお花屋さんのおじさんに注文して
用意してもらいました。

P1020177

今年はこんな感じで。(背景がうるさくてすみません)

P1000926

いつもはこんな感じ・・・(自然光だと綺麗だな)

夕方の4時が我が家のお迎え火の定刻なので、それに間に合うように
仏壇の掃除から始めて、一人で悪戦苦闘した末に何とかお迎えできる
なったのは午後3時。

あとはお位牌とご本尊様の数だけ8つのお供えを用意して終了。
この暑さの中、終日お供え物が置かれるため、仏壇のある和室は
24時間常にクーラーを付けている状態にキープするという、
今の時代に合わないノンエコな行動ですがどうかお許しを。

悪戦苦闘の結果がコレ

P1020175

最後に母の葬儀の後に打ち直して貰った座布団を引っ張り出して
仏前に置きました。フレンチリネンの表地の肌触りが気持ちよく満足。

ほおずきを飾ったり、色々と各家庭によって飾り付けは違うと思いますが、
我が家は至ってシンプルです。
きっとごちゃごちゃ飾るのが嫌いな母の影響が大きいと思われます。

初日の夜、従兄弟の兄が夜遅くやってきてお線香を上げていって
くれました。
兄は妹の結婚妊娠を母の写真に向かって伝えながら、やがて大泣きに・・
子供の頃からやんちゃばかりしていた兄で、最後の最後までこの兄の
前になるとその心配からか、急に正気に戻った母を思い出し私ももらい泣き。
いつまでも大人になりきれないこの兄が母はとにかく可愛くて仕方がなかった
のだと思います。

しばらく泣いていなかったのに、兄につられ久々に涙をし、
母の死からもう半年の時間が流れた事に気付かされました。

母を看取り、葬儀、四十九日法要と駆け足で来て、この新盆を迎え、
年末の一周忌まではきっとあっという間でしょう。
それが終わればあとは三回忌の法要までに、菩提寺にあるお墓を
新しくする事が目下の私の目標です。
これは生前母がずっと気にしていた事で、江戸時代からの古いご先祖様の
碑を修繕したり、風化してしまったものはまとめて別の碑を建てたりしたいと
母がお寺に相談していた記憶が強くあるので、これだけは何としてでも
やり遂げて母に安心してもらいたいというのが、私が母にしてあげられる
最後の孝行じゃないかと思って下準備中です。

但し、なまじ広いお墓なので変にまとめるとスカスカになって貧相だし、
当然相場もあって無いようなものなので慎重にならなきゃと、未知の
仕事なので手探り状態ですが、時間を掛けて後悔しないモノを作らなきゃ
と、新盆を機に改めて決心しました。

十六日の送り火までの短い期間ですが、心を込めてご先祖様を
おもてなし出来ればと思って、これから今夜のちらし寿司の材料を
買って参りま〜すdash

| | コメント (2)

2009/03/02

今年のおひなさま

P1010806

3日前に雛人形を出しました。
毎年出来る限り出そうと決めているのですが、毎年飾っている場所には
母の愛用の椅子が置かれているので、それを動かすにはまだ忍びない為に
今年は玄関に飾る事にしました。
とはいえ、親王飾りだけでない我が家のお雛様をどうやって飾ろうかと、
玄関に飾ると決めたのは良いものの、あーでもないこーでもないと散々
悩んだ結果、弟の部屋に置きっぱなしになっている棚板を、母の葬儀の時に
生花を家に運び込んでもらった際に使った生花台に乗せ飾り台にしました。

去年は確か出さなかった記憶があるので、こうしてお雛様を出すのは2年ぶり。
飾る時は1時間、しかし片付けるのは2時間以上も掛けて仕舞うので、
手を掛けた分だけ保存の状態も良くひと安心。
何たって私の叔母の初節句に祖父母が買ったというこのお雛様が、初めて
我が家に来たのは今から80年も前の昭和初期の事。
衣装の生地にも痛みが目立ち始め、小道具のお裁縫道具の針山の布は
擦り切れて中身が見えてしまっています。
新しい生地で張り替えようにも、昔の朱色の絹地を探すのから始めなければ
ならず、未だ手付かずのまま。
今年こそはどうにかしなきゃ・・・!

とりあえず1階の玄関を飾り終えたところで、さて自分の初節句に買ってもらった
親王飾りはどこに飾ろうかと色々思案したところ、せっかく畳も入れ替えた事だし
2階に飾ってみようかと思い立ち飾ってみると、コレが意外と収まりが良くて満足。
1階、2階いずれのお雛様も雪洞の代わりに、充電式のキャンドルライトを置いて
雪洞代わりにしたのですが、エコだし見た目もスッキリしてオススメです。

P1010809_3


最後にいつものおじさんのお花屋さんまで桃の花を買いに行くと、待っていました
とばかりに、家中の花瓶に生けても余るほどの立派な桃の枝を奧から出してくれ
ました。
その時にはまだ蕾だった桃も今じゃこんな可愛い花を咲かせています。

P1010807


そして今日、仕上げに近所の和菓子屋さんでお雛様の和菓子とひなあられや
干菓子を買ってきて、お仏壇とお雛様に飾り付け今年のお雛様も完成です。

P1010812


お正月をあんな予想もしなかった形で迎えた我が家にとって、おひな祭りを
いつも通りに迎える事なんて1月には考えられませんでした。
でもこうして、いつもの通りにお人形を並べ、桃の花を飾り、お節句を祝う事で
あの日に一瞬にしてずれてしまった時間を少しずつ修正しているのだなと感じます。

毎日のように外から戻って玄関を開ける時、飛び込んでくるこの華やかな風景が、
もう素直に祝ったり、喜んだりして良いんだよって言ってくれている気がして、
いつもより自然と玄関に居る時間が長くなっているみたいです。

| | コメント (6)

2009/02/15

四十九日を終えて

先日の11日薄曇りの祝日の中、再び母を見送りました。
その日は母の四十九日で、葬儀の時と同じ菩提寺にある先祖代々のお墓に約一ヶ月半共に家で過ごした、母の遺骨を納骨したのです。

正月の最中の6日に葬儀を終えてからの約一ヶ月半の間毎日お線香をあげ、朝晩欠かさず食事を供えた母の遺骨と別れなくてはいけないんだという実感が湧いてきたのは、9日に78歳の誕生日を迎えるはずだった母のバースディケーキの蠟燭の灯を吹き消した時でした。

P1010750


6日の火葬の際の別れの時にそんな感情はもう使い果たしたと思っていたのに、込み上げてくる何とも言えない感情をどうする事も出来ず、一緒に吹き消した妹と二人、口を開くと嗚咽が漏れそうになるのを避けるために、妹はキッチン、私は母の遺骨のある仏間へと移動し、気持ちが落ち着くまで一人で何もせず畳の上にゴロンと身体を投げ出すようにして時を過ごす事で、思いがけずに襲ってきた哀しみと必死に向き合いました。

P1010733


畳の上で和室の天井を見ながら思い出したのは、20代の頃映画の仕事でご一緒した某俳優さんのお話でした。
その方の場合、長年飼われていた愛犬との別れのお話しだったのですが、ご一緒した撮影の1年前に亡くされた愛犬の遺骨を深大寺の動物霊園に用意してあるお墓に納める決心がどうしても付かず、毎月の祥月命日の度に奥様に納骨を促されてその前日に決心したにも関わらず当日の朝になると、180センチ以上もある大きな体躯を小さく丸め愛犬の遺骨の前に座り込んでは、納骨を取りやめるというのを繰り返されているので少し困っているのよ・・と話す奥様の泣き笑いの顔をふと思い出したのです。
丁度、先日NHKでその俳優さんの特集を1ヶ月に渡り放送していたのを見ていたり、その方の息子さんの出ている映画の試写会に行き、益々お父さまに似てきた息子さんの姿が妙に残っていたので、余計に母の納骨の件と繋がってしまったのかも知れません。
姿が無くなった今、目の前の遺骨だけが心の拠り所になっていたのは、その俳優さんも私も間違いなくそうで、それが母であろうと愛犬であろうと愛する存在を亡くした哀しみに何ら変わりはなく、俳優さんの話を聞いたその時には実感として判らなかった哀しみの正体を、十何年経って初めて知ったような気持ちになりました。

そんな事を思いながらぼ~っとしている私の頬に冷たい物体が触れ、ふと我に返るとそれは愛猫るぅの鼻先でした。
動物は人の気持ちにすぅっと寄り添う事が出来るのだとよく言いますが、この時のるぅの行動はまさにそうだったと思います。
そしていつかは訪れるだろう、るぅとの別れを俳優さんのエピソードと重ね堪らなくなり、思わず横に寝ころんているるぅを無理矢理抱きしめてしまいました。

その俳優さんはその数ヶ月後、知り合いのカメラマンさんが見かねて連れてきた同じ犬種のパートナーとの出会いを機に、ようやく決心をし納骨したと後で聞きました。

最初は遺骨を入れるアッシュペンダントに入れる為にホンの少しだけ分骨するつもりが、結局小振りの蓋付き容器に入れるくらいの分量のお骨を骨壺から取り出し、その代わりに家族で最後に行った伊豆の温泉旅行の時の写真をその上に納め、再び桐の箱に戻しました。
今は現代供養という名の下に、残された人たちのライフスタイルに沿った供養の仕方が幾通りもあり多様化していると言います。
確かに行きづらい遠くのお墓よりも、いつでも手を合わせお茶をお供えできる自宅に遺骨を置く事を選ばれる人が増えているというのも判る気がしました。

P1010731
最後のランチプレート

P1010751
最後の夕食は海鮮丼でした。

それに、納骨を前にこれが最後の誕生日、最後の夕食、最後のランチ、最後の朝食と、全てが特別な重いモノだったイベントが、分骨をした事で納骨後も何も変わらずお供えをすれば良いんだという当たり前の事に気付き、分骨前よりも格段に気持ちが楽になっている自分に気付きました。

P1010754


骨壺を元あった祭壇の上に戻し、最後の母への誕生日プレゼントになったレースのストールを骨壺に巻き付け、母が20代の頃作った帽子を被せて最後のお洒落を楽しんでもらいました。
少しよそ行きの顔をした骨壺の横にある遺影の母の顔が、ちょっぴり照れくさそうに見えました。

| | コメント (6)

2009/01/25

母を葬る(おくる)ということ

12月31日の大晦日、私は母を亡くしました。
享年77歳、死因は老衰だと医師から告げられました。

この数年、正確には会社を辞める1年前に当たる30代後半からの約6年間、
私は家族と共に認知症を発症した母の介護をしてきました。
母が亡くなる今まで、このブログでその事には全く触れる事は
ありませんでしたが、結果的にこのブログは私が介護生活を送る中での
息抜きの記録の様なものになりました。

昨年最後に受けた介護認定の結果は「介護度5」。
モノを飲み込む力が弱くなり、全てにおいて100%介助無しでは
生活出来ない状態の母を見た担当者が判断した結果でした。
最後の1年は表情も乏しくなり、殆ど言葉を発する事もありませんでしたが、
綺麗事でなく時折見せてくれる母の笑顔だけが、日々の介護に追われる私の
心の支えになりました。

母の最後の1日
その日は朝から、訪問看護の看護師さんに栄養剤の点滴をしてもらう
予定の母の側に居てもらうために、滅多に家に居る事のない弟を呼びつけ、
私は妹と共にお正月の買い出しに出掛けました。
はじめは弟に車を出させ妹と2人に買い出しを頼もうと思っていたのですが、
ふと、たまには弟に母の世話をさせるもの悪くないかと思いつき、
結果的にその日の数時間が最初で最後の弟の介護になりました。

人が亡くなると不思議な符合があるのだと良く聞きますが、この弟の
介護の件を始め、母の死にも多くの符合がありました。

例えば家を新築してから9年間、一度も新しくした事が無かった畳表を
替えた事もそうです。
12月に入った頃、急に愛猫のるぅが和室に置いてある母の桐の箪笥におしっこを
繰り返し引っ掻けるようになり、新年を迎えるにあたり余りにもみっともないという
事で、年末ギリギリに1階の和室と2階の母の寝室だった部屋にある琉球畳を
新しく張り替えてもらったのです。
それに合わせ染みが出来てしまった桐の箪笥も職人さんに削りに出し、
母が亡くなる前日にまるで新品のようになって戻って来ていました。

P1010705_3

その上、いつもならグダグダと元旦の朝まで掛かっていた大掃除も、去年に
限っては何故か28日には完璧に終わっていたおかげで、母が亡くなる当日の
その瞬間まで私は父が腰が痛いと投げ出した障子の張り替えをしていて、
気が付くと結果的に母を迎える事になった1階の和室は、何から何まで
新しくお客様がいついらしても恥ずかしくない状態になっていました。
母の遺影とお骨が祭壇に置かれて居るその部屋を見る度に、我々が慌てて
恥を搔かないように母がるぅにおしっこをするようにし向けたとしか思えず、
今考えるとそれは、何も口を聞けなくなっていた母からの
「日頃から常に恥ずかしくない状態を保つ事を心掛けなさい」という
最後の教えの様な気がしてなりません。

そして何よりも母らしかったのは、死の数時間前に摂った最後の食事が、
我が家の行き付けの谷中の寿司屋の大将が握ってくれた鮨だった事です。
食いしん坊だった母は生前、自分の最後の晩餐は大将が握ってくれた
お鮨が良いのだと事あるごとに言っていて、結局その発言通り、
まぁさすがに舎利は食べられなかったのですが、固めに炊いた白がゆの上に
好物の鮨ネタだった穴子とウニとトロを乗せたものを口にしたのが、本当に
母の最後の食事になった事です。

その上、30日にお正月の買い出しが全て完了していたお陰で、我々家族も
新年にはいつもと同じ美味しい食事を食べる事が出来たのです。
もし母が一日でも早く亡くなっていたら、明らかにいつもと違う新年の食卓を囲んで
いたことを考えると、この事にも母の強い意志が感じられ年々母の味に近づく
妹が作るお雑煮を口にする度に思わず涙が零れ、死しても尚、家族を想う
母親の愛情の深さと凄さを感じずにはいられませんでした。

時間が経つに連れ強く想うのは、母を病院からでなく家から送り出せて
あげられて、本当に母もそして我々家族にとっても本望だったという事でした。
実は、亡くなる当日の朝も少し咽せ込みが有ったために、訪問看護の
看護師さんから入院を勧められていたのですが、年末年始とくに正月を
病院のベッドで寂しく迎えさせるのが余りに可哀想で可哀想で・・
どうしても聞き入れる事が出来ませんでした。
母が家にいる事を心から望んでいる事は、口にしなくても痛いほど判って
いましたし、それが家族と家を心から愛した母の意志だという確信がありました。
結果的に母は亡くなってしまい、母を失ったその瞬間はもし入院させていれば
状況は変わったのだろうか・・・と「たら」「れば」を繰り返してはいましたが、
もし病院で急変したならば臨終の瞬間にも立ち会えず、密室で何があったのかも
知らせられず、もしかしたら母の死に関して他者を恨む事になっていたかも
知れない・・と思うと、母が切望した家での臨終は母にとっても我々家族に
とっても、最良の選択だったのだと心から思えるようになっていました。
そして何よりも、年が明けたら食事が取りづらくなった母に少しでも長く生きて
もらいたいと胃ろうの手術を受けさせるのだと決めていた私の気持ちを察し、
その事を何よりも嫌った母が自ら自分の人生に幕を引いたのだと思えて
来たのです。

母が亡くなったのは30日の深夜、日付は31日に変わったばかりの午前2時の
事でした。
火葬場も正月三箇日は休業する上に、今年は4日が「友引」だという事でお休み。
お陰で31日から5日の朝までの5日もの長い間、横たわる母の傍らで眠り、
母の顔を見ながら葬儀までの心の準備が出来た事は、余りに突然の事に取り乱す
ばかりの私たち家族にとっては何よりも有り難い事でした。

P1010709

その間、今となっては遺品となってしまった母の持ち物の中から、
母がひと針ひと針丁寧に縫ったパッチワーク作品や、オシャレだった母が
若い頃にオーダーで作った帽子やパンプス、嫁入り道具と一緒に持ってきた
何百冊もの歌舞伎や演劇のパンフレットを一点ずつ丁寧に取り出し、
生前の母が最後まで愛用していた母の身体に合わせて作ってもらった椅子の
上にそれをディスプレイをして、次々に母に会いに訪れる親戚や友人を出迎えました。
旅行好きだった母の独身時代のアルバムと共にトランクに収められていた
一眼レフのカメラも飾り、その傍らには母が旅行先で撮った写真を半分は独身時代、
残り半分は結婚してからのものと分け、A3版のアクリルフレームに挟み同じく椅子に
飾ると、それを見た親戚や友人が口々に懐かしい母との旅の思い出話を
横たわる母に向かってしてくれました。
その風景はよくある通夜までの重い空気とは対極の、涙と同量の笑いもある、
温かで穏やかな空気に包まれていて、死化粧をしている母の顔が何度も
笑っているように見える程、母が愛した楽しく賑やかな風景でした。

人を愛し、人のためにトコトン尽くし、何よりも人に囲まれているのが
似合う母でした。
3人も子を成しながらも、一人も本当の孫を抱けなかった母ですが、
早くに亡くなった叔母の孫達が常に我が家に入り浸り、その孫のような
子供達が母を思いワンワン泣いてくれている姿を見て、母もきっと
うれし泣きをしているはずだと、今は18歳になった最も溺愛した
その子の涙を見て確信しました。
いつかはこの世から居なくなる事の儚さや切なさ、今を生きる事の大切さは、
大きな犠牲の上にしか成り立ちません。
この子達が初めて体験した自分を心から愛してくれた母の死は、10歳で祖母を
亡くした私がそうだったように、この子達の心に言葉では教えられない大切なものを
遺してくれたはずです。

・・・とここまで書いてきて、こうして自分が母の事を言葉に出来るまでに、
25日もの時間が必要だった事に気付きました。

確かに何もかも初めての連続で、PCに向かう時間など取れなかった事も
有りますが、キーボードを前にしても指が動かず、車を運転していても
母と行った思い出の場所の前を通ったり、通い続けた病院を窓の外に
見つけては、母の事をあれこれ思い出し車を止めて一人で声を上げて
泣いてしまう様な事を日々繰り返していた為に、
冷静に母との時間を振り返る事など出来なかったのです。

それが、来月に控えた四十九日法要に向かい、母の思い出の品として
母の写真を入れたフォトフレームを入れるケースに刺繍をしたり、
お香典返しの為に参列して下さった方達の名前を整理しながら、その人が
喜びそうな品を選んだりしている内に、沢山の人たちに愛された母の姿を
思い出し、自然に気持ちが落ち着いてきたのです。
それと、21日に前々から予定していた蜷川演出のシェイクスピアの
「冬物語」を観に行った際に、本作の翻訳をされた松岡先生のレクチャーを
聴く機会に恵まれ、この戯曲の根底に流れるものは「死んでしまった愛する
者にもう一度会いたいと願う切なる気持ち」なのだと話されているのを聞き、
自分が置かれている状況との偶然なる符合に驚きながらも、数百年もの間も
何も変わらない普遍的な人間の思いを再確認し、その後同行した友人を
車で送る道中、嵐のように母への思いを口にした事で自分の中で気持ちの
整理が少しずつ着いてきたのを感じました。

だからこそ、こうしてPCに向かい今まで話さなかった介護の事や、
母の最期について書く事が出来たのだと思います。

P1010724aa

5日の通夜の日、我が家の菩提寺である中野の宝仙寺境内にある斎場に入ると、
そこには母が生前希望していた「生花」をふんだんに使って作られた祭壇がありました。
所謂「生花葬」です。
母が希望していた山百合は夏の花だという事で無理でしたが、生花市場が
閉まっている中で必死に集めて下さったカサブランカやカラー、胡蝶蘭が
母の棺の周りに溢れていました。
「こんな贅沢しちゃって・・」と少し困惑している母の顔が浮かびましたが、
母への感謝の思いを形にすると結果的にこれ以外考えられないというのが、
私と弟の最終的な答えでした。

P1010727_3


棺の上には錦の布ではなく、母の作ったハワイアンキルトのタペストリーを
掛け、祭壇の上には大きく引き延ばした思い出の写真と共に、自宅でも
寝ている母の横にあった愛用の椅子と思い出の品々を置かせてもらいました。

P1010720_2


葬儀の最中は母の好きだったクラッシックと石原裕次郎のCDを掛けてもらい、
出棺の時は弟に「お姉ちゃん、それってベタじゃねぇ?」と言われたのですが、
母の好きだった裕次郎の「我が人生に悔いなし」を流してもらいました。

確かに70歳目前で認知症を発症し、自分が思い描いていた老後とはかけ離れた
時間を過ごす事になってしまった母でしたが、最期の最期まで自分の育てた娘と
夫の手で世話をしてもらい、遺して行く我々にも十分な思い出と沢山の教えを
遺せた事に関しては、母も本望だったと思います。

でも・・・
寂しいです。
本当に心から母が恋しいです。

この気持ちは何があっても拭えないと思いますが、明るく楽しい事が
大好きだった母の気持ちに報いるためにも、遺された家族4人と猫1匹が
今まで通りの生活を取り戻さなければと切実に思っています。

余りにも私的で重いだけのこの長文を書き上げた今、これをアップして良いもの
なのか多少の躊躇はありますが、私が1歩を踏み出す為の必要な課程の一つ
だという事でどうかお許し下さい。

お詫びついでにずうずうしく、最後に一言。

お母さんへ
   生んでくれてありがとうございました。

| | コメント (8)