演劇

2009/11/03

「組曲虐殺」〜受け継いでゆくという事

昭和一ケタ世代などの戦時中に幼少期を過ごした世代にとってその体験は、
あの「戦争」とは一体何だったのか、一生そう自分に問い掛け続ける事から
逃れられない観念を彼らの中に植え付けました。
先頃亡くなった私の母もそうでした。

その戦争を経て、空っぽになった日本に生まれ落ちた世代、所謂団塊の世代には
「学生運動」という若者達の戦争がありました。
あれは単なる熱病だったのだろうか?そう自分に問い掛け続け、その呪縛から
逃れられない人を沢山見てきました。

その学生運動も終盤に差し掛かった頃、この日本に生まれ落ちた世代である
私には「戦争」や「学生運動」に匹敵する、人の価値観を根底から覆す様な
強烈な実体験はありません。
オンタイムで体験したはずの受験戦争やバブルの崩壊も、それに匹敵するには
余りに希薄すぎて語るべきモノがありませんでした。

ならばそんな私が一生を掛けて背負うべきものは何なんだろう・・そう考えた時、
いつもそこにはそれを教えてくれる「何か」がありました。
その「何か」は芝居だったり、人の思いだったり、音楽だったり、本だったり・・・
その時々にその「何か」は違っても、それを体験した人の思いが込められた作品に
触発され、その思いを受け継がなくては・・・と私を奮い立たせる「何か」に今回も
出会う事が出来ました。

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こまつ座+ホリプロ公演「組曲虐殺」
井上ひさし氏の書き下ろしの新作である本作は、近年再び脚光を浴びた「蟹工船」の
作者、小林多喜二の評伝劇です。

小林多喜二の名前を初めて知ったのは近代文学史の試験勉強の中で、
ただ暗記の対象として覚えた高校の時でした。
日本が世界経済の中で重要視され、プレバブルとも言うべき好景気の中では
小林多喜二の作品は今のように再評価の対象とされる事もなく、ただ暗記した
数式のように自分の中で消化され、いつの間にか記憶の彼方へ消えてゆきました。

そして、次に彼の名を目にしたのはそのずっと後・・・女優の原 泉さんの自伝の
中で久しぶりに彼の名前を目にし、初めてその非情な最期の写真を目にしました。
警察の過剰な暴行の末に体中が腫れ上がった彼の遺体を囲むように、彼の活動
の支援者、仲間達が悔しげにしている有名な写真です。

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私も本作が小林多喜二が主人公だと聞いて、真っ先にこの写真を思い浮かべ、
きっと重い作品になるんだろうなぁ・・・とある程度は覚悟して行ったのですが、
3時間余りの上演時間の間、舞台上には彼が背負っていた重く暗い影の部分よりも、
1人の若者が賢明に自分の信じる道を生きている躍動的な部分に焦点を当てていて、
観終わった後には暗い時代背景が持っている重苦しさは不思議と残りませんでした。

作品の中の小林青年は、決して聖人君子などではなく自分の欲求にも率直で、
純粋に国を思い、不平等な経済のシステムに対し微力ながらも何かをしなければ
という衝動に突き上げられるように行動する1人の若者でした。
普通に恋をして、美味しいモノを食べたいと口にする姿は私たちと何ら変わりは
ありませんが、ただ一つ違っていたのは彼が背負っていた時代でした。
一つの権力が絶対的な力を持ち、上から圧力をかけてくる中で彼はペン1本で
戦いを挑み、自身の魅力で周りのモノを惹き付けそれを力に変えてゆきます。
それを井上芳雄さんが持ち前の魅力の一つ清潔感を武器に明るく軽やかに
素敵に演じていました。

それと今回の思わぬ拾いモノ(失礼coldsweats01)は石原さとみさんでした。
映像で観ていてその演技力と可愛らしい容姿は知っていたものの、正直惹き付け
られるモノがそれ程感じられず、今回も大して期待していなかったのですが・・・
舞台の上の彼女は、暗く痛ましい生い立ちの中でも生き生きと真っ直ぐな目で
世の中を見つめ、健気に多喜二を思いながらも自分は並んで歩いて行く事が
出来ない現実を受け入れながら、いじらしい程彼女のやり方で彼を支え続ける
その姿が、石原さんの可愛らしさとピッタリと合っていて、正直歌はイマイチでしたが、
台詞の明解さ、役に対する真摯な思いがひしひしと伝わってきて、とても好印象を
持ちました。
今の若手の女優さんの中で、確実に昭和の遺伝子が受け継がれ、それを無理なく
演じる事が出来る貴重な女優さんだと気付かされました。
彼女はきっと良い女優さんになっていくんだろうなと思います。

この芝居と出会う事で、20代半ばの若い彼女の中にも、彼女と同世代の
戦時中の昭和を生きた若者の思いがしっかりと受け継がれ、忘れ得ぬ記憶として
意味あるモノに形を変えてゆくように、観ていた私にも上に書いたような使命に
似た意志のようなモノが確実に残りました。

登場人物の誰ひとりとして、本当の悪人は存在しないお芝居でした。
敵役の公安の刑事だった2人にも守るべき家族があり、胸に抱いていた夢がありました。
それを心のどこかで多喜二の存在に託し、結局は人として彼を最期まで糾弾する
事は出来ませんでした。
母のような強く気高い女たちと、ちょっと抜けてて人間味溢れる男たちに
支えられ、賢明に青年多喜二は29歳の生を駆け抜けて行きました。
どんな暗い時代であっても1人1人の人間にはどこか思い出せばクスリと笑える
瞬間が必ずあって、それがとても愛おしく感じられるのは書き手の井上さんが
心から人間を愛し、人の力を信じているからなのだとこの作品は教えてくれます。

そしてこの芝居の帰り道、車を運転しながら当たり前のようにこの気持ちを
母に話そうと思い、あぁ、そうかもう居ないんだ・・と思い知らされました。
聞いてくれる友は居ても、聞いて欲しい存在はもう居ない事に気付き愕然とし、
どうして生きている時に一緒に井上戯曲を見に劇場に足を運ばなかったのか、
そんな後悔が胸に押し寄せまぶたの奧が熱くなるほどの猛烈な喪失感が久々に
襲ってきました。
最近、1人観劇を復活させたこともあって、その度に感動をそのまま受け止めて
くれていた母の存在の有り難さを再確認させられることが多くなり、観劇の度に
こんな事を繰り返しています。
それでも、また井上さんが書かれた新作が上演されると聞けば駆けつけずには
いられないのは、井上戯曲の力の成すものなのでしょう。

次はオスカーワイルドの篠井版サロメ。
これは森山開次さんを生で観たいが為の観劇ですが、また1人なので森山さんの
魅力をすぐに話せるように芝居の後に呑みに行かなきゃ。
※既に「サロメ」も観劇済み。コレもまた今度upします。

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2009/09/04

ドリアン・グレイの肖像

「ドリアン・グレイの肖像」
オスカー・ワイルドが書いたこの作品の存在を知ったのはまだ10代の頃。
今は亡き久世光彦さんがジュリーに捧げた文章の中で、彼に演じさせたい
作品の一つとしてあげていたのがこのドリアン・グレイの肖像でした。

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ただ作品自体は読んだ事がなく、舞台化された作品も観た事が無かったので、
知っていたのはドリアン・グレイという美青年を描いた肖像画が青年が
年を重ねてゆくにつれ、生身の青年が老いてゆかない代わりに、
肖像画の中の青年像が年老いて行くという、どこか非現実的な少女漫画の中の
ストーリーの様な大まかなあらすじのみ。

今回は作品よりも山本耕史さんが久しぶりに舞台でストレートプレイに
取組んだ事の方に興味があったので、そちらの方を楽しみに行ったのですが
結果的に彼自身は、ミュージカルとストレートプレイを特段差別化することなく
演じるために、ストレートプレイだからといって舞台上の彼が至っていつも通り
だったので、特別ミュージカルの時との違いを感じる事はありませんでした。
ただそれが私にはどこか新鮮味が無くて、正直少々物足りなかったのですが・・

一緒に行った友達2人はそれよりも貴族特権階級の持つ退廃から来る傲慢さが
我慢できないらしく、そんなに退屈ならばもっと世の中のためになる事すりゃ
良いじゃん!!impactと休憩時間中に怒りをぶちまけてました。
周りは作品の持つその耽美な空気に酔うために来ている観客ばかりの中、
我々はかなり浮いた存在だったかも(笑)
正直私も作品の意図する意味がピンと来なくて、洋物の耽美な作品って
やはり自分の肌に合わないんだなぁと再確認。
和物の耽美な作品はそれなりに酔えるのですが、文化様式の違いでしょうかねぇ。
耽美な作風がお好きな方は十二分に楽しめる作品だと思います。
役者さんで言えば、加納幸和さん演じるヘンリー卿の冷血さが上手な役者が
演じている分余計に残酷で薄気味悪く、タイトルロールのドリアンよりも鮮明に
印象に残りました。

単に自分自身が耽美作品に酔えないだけで山本耕史さんには非はないし、
何だかせっかくファンクラブで良い席を取ってくれた従姉妹には申し訳ない
気持ちで一杯のまま劇場を後にしました。
でも山本くんにはまた今夜と同じメンバーで行く年末のヘドウィッグの舞台で
逢えるし、そちらを楽しみにすることに頭を切り換える事にします。

とにかく腹ぺこで芝居の最中もお腹が鳴って仕方がなかった我々は
とりあえずお腹を満たしに三茶の街へ繰り出しました。
事前に調べてきたお店はことごとく満席で断られ、結局RAIN ON THE ROOFという
旅館か何かの日本家屋を改造したカフェを見つけ、ラストオーダーギリギリに
滑り込んで慌てて注文しまくりました。
高い天井の広々とした空間が気持ちの良いカフェで、色々なイベントに
スペースを貸し出しているようで、落語や詩の朗読、フェルト工芸などの
クラフトイベントもあるらしく、フェルト工芸に興味がある私としては気になる
カフェでした。

次に足を運んだのは8月いっぱいで店を閉じ、古巣の2丁目に戻るという
お友達がやっているゲイバー。
別に商売が立ちゆかなくなっての閉店じゃないので至って気楽な気持ちで
明るく乾杯を何度も交わし、話は彼の目下のお気に入りである佐藤健くんの
映画にエキストラで出た時の話しで大盛り上がり。
どうやら今年のFUJIROCK FESTIVALの翌日に苗場のフジロックのセットを
借り切ってのロケだったらしく、足場の悪い中必死に健くんが見えるポジション
を取るべく努力した彼の涙ぐましい頑張りっぷりと、健くんと目が合ったの〜heart04
無邪気に喜ぶ脳天気な話を聞かされ一同大笑い。
その後もそこでいつもの如くダラダラと話し込み、先日の武道館での坊ちゃん達の
ライブの愚痴やらを聞いて貰ったけど、考えてみたらヒョンジュン君って彼の
タイプだったかも。今度会った時にこっそり紹介してみようかしら・・・bleah

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ちょっと・・違うか?(出処:写真内に表示)

気付くとすっかり終電もなくなり、駅前にド〜ンと構えるドンキの姉妹店で
さっきの友達の店で面白いのよ〜noteって見せてもらった500円貯金moneybagが出来る
本型の貯金箱(?)を3人揃って買い込み、来年のフジロック貯金をするぞ!と
早速その日から始めました。
500円貯金は貯金の苦手な私が唯一やり通せる貯金方法なので結構楽しみながら
出来そうです。

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次の芝居は来月の井上ひさしさんの「組曲虐殺」。
小林多喜二を主人公にした音楽劇だそうで、心揺さぶられる事確実だろうと
今から楽しみにしています。同じく10月にはドリアン・グレイの肖像と同じ
オスカー・ワイルドの「サロメ」も待っているのですが、これはNHKの
「ようこそ先輩」を観て、その真摯な姿と穏やかな佇まいに一目惚れした
ダンサーの森山開次さん見たさでチケットを取ったのです。
これも相当な耽美な世界が繰り広げられるんだろうなぁ・・
考えてみたらこれも鈴木勝秀さん演出作品でした。
最近観た作品って蜷川さんと鈴勝さんの演出作品が8割を占めているような
気がします。思えばZAZOUS THEATER時代から相当観てるかも。
元々、この人の男の役者のセレクトが好きなんですよねぇ。

そんなこんなで今夜はタクシーにて白々と明ける中帰路に着きました。
あぁ・・・9月はちょっと気を引き締めなくちゃ!

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2009/08/11

BLACK BIRD

ディスコミュニケーション、閉塞感、神経症の台詞劇

これらは芝居の最中、私の頭の中に浮かんだ言葉の数々。
デヴィッド・ハロワー作、栗山民也演出の芝居「BLACK BIRD」をゲリラ豪雨に
見舞われた先週の金曜の晩、世田谷パブリックシアターに観に行きました。
演じる役者は2人。
文学座の・・今はこんな説明もいらない程の看板俳優になった内野聖陽さんと、
すっかり大人になっていた伊藤歩さん。

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【物語】今から15年前、少女を誘拐して有罪判決を受け、名前も住む場所も
変えたレイ(内野)の元へ成長した少女・ウーナ(伊藤)が現われ、
この15年、そして当時のことを話し始める。

と、物語の概要は上に書いた感じなのですが、このお芝居の冒頭は
ディスコミュニケーションと表現した通り、突如として散文詩のような台詞の
応酬で始まり、舞台上のとある会社の休憩室にぶちまけられたゴミくずに
象徴される、無秩序な空間の持つ澱んだ空気もあり、観ている私たちは
ものの数秒でたまらない閉塞感に包まれる。

舞台上の元少女ウーナは27歳、つまり事件時の年齢は12歳と言う事になる。
この事件の背景を説明する舞台のすじを追っているうちに、友人から昔話された
ある言葉を思い出した。
それはその友人が当時住んでいたラスベガスに遊びに行った時に、何かの話の
流れから出てきた「幼児性愛」という一つの性の嗜好に関する会話だった。
というのは、「幼児性愛」に対し欧米人が持つ圧倒的な嫌悪感に対し、日本人の
それはあまりに軽く、それ故に未熟な女性観が犯罪に走らせるのだという
友人との会話だった。
勿論日本でも当時から幼児性愛が背景にある犯罪は問題視されていたし、
それが昨今では国会で取り上げられるほどの問題にもなっているが、欧米に
比べるとまだまだ軽視されているような気がする。
それは「ロリコン」という言葉で簡単に括られ、アニメ文化の盛んな日本では
いつの間にかバーチャルな女性観に結びつき、結果的にただの性的異端者として
片付けられたりもする。
しかし、欧米では人間的落伍者のレッテルを貼られ、重い十字架を背負い
続けて当然という常識の元に幼児性愛は置かれている。
だからこそ物語の中のレイが名前を変え、何の説明も許されないまま
刑に服した理由がそこにはある。
ちょっと可愛かったから・・は欧米では全く通用しない、性的不具者として
公の場で裁かれるのだ。
その重さを知った上でこの芝居を観ると、背景にある過去の出来事の
重大さに押しつぶされそうになってくる。

勿論、レイのやった事に対する同情などは微塵もない。
と同様にウーナが背負ってきた過酷な人生にも同情が出来なかった。

少女はどの段階で女になるのだろう。

そんな言葉が頭をよぎった。
女は女として生まれ死ぬまで永遠に女なのだ。
それが女の私が出した答えだった。
だから、12歳のウーナは女として40歳の男だったレイを愛し求めた。
同じように40歳のレイがウーナの中の未成熟な部分ではなく、
純粋に「女」を求めたのか・・その答えに導く展開が終盤に待っていた。

ここでは勿論語らない。
一緒に行った友人は久々に自分の中の血が引いていくのを感じたと言った。
私は過去に戻ったのか時間軸が分からなくなり頭が混乱した。

間違いなく問題作だろう。
最初は性格破綻者のドキュメンタリーを観ているような居心地の悪さを
覚えたが、その居心地の悪さはいつしか緊張感へと変化し観客を混沌とした
空間へと誘う。
見終わった後の後味の悪さ、消化不良の感もどこかイヤじゃなかった。

まるでチェーホフの「かもめ」のラストのようなぶった切るような終焉も時間が
経つに連れ、観客を突き放し「さぁ、あなたはこれをどう捉えるのか」という
課題を与えるような幕切れで良かった気がしてきた。
(実際この後地元に場所を移し、いつものBARで延々と1時までこの話を
したくらいだし、結局お酒も飲んじゃったし・・・)

内野さんは期待通りの安定した演技で、難しい男を演じていたし、
舞台が2回目という伊藤歩さんも小鳥のような繊細な声が印象的だった。
台詞に関しては不安定な点は否めなく、まだ未完成な部分が多かったが、
今まではスクリーンの人ってイメージだった彼女だったけれど、
劇場という演劇空間もよく似合っていた。

そして、
デヴィッド・ハロワー
この同世代の劇作家に興味が沸いた夜だった。

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2009/06/09

ムサシを観に行く

この舞台を見たのは実は3月の事。
見てすぐにレビューをアップしても良かったのですが、
どうも思い入れが強い芝居が対象だったからでしょうか、
思いが錯綜しすぎて逆に文章としてまとめる事が出来ない今日この頃・・・。
ことに藤原君の舞台となると、身を削って舞台に立っている彼の苦悩と
成長の記録なだけに、おいそれとは筆が進まないのです。(・・にしても遅いけど)
そんな理由が全てではないけれど、今更ですが舞台「ムサシ」レビューです。

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井上ひさし書き下ろしの新作「ムサシ」を観てきました。
演劇鑑賞歴はそこそこ長いのですが、井上作品は「天保十二年のシェイクスピア」
「薮原検校」「道元の冒険」という3本の蜷川演出作品と、こまつ座公演の名作
「太鼓たたいて笛ふいて」の4本のみ。
そのいずれもが面白いとは判っていながら今までスルーしていた事を
思い切り後悔させるに十分な力のある作品ばかりでした。

そんな少ない鑑賞歴ながらもそれらの井上作品から感じたのは、
作品の根底に流れる人間同士の争いを愚かだと叫ぶ
人間の理性への問いかけ。
そもそも人間が生んだ諍いなのだから、唯一人間だけがその連鎖を
断ち切る事が出来るのだという祈りのような訴えでした。


パンフレットによると、元はと言えばこの舞台「ムサシ」という作品が
企画されたのは今から20数年前の1985年頃の事だったといいます。
今回と同様ホリプロの現会長である堀氏との間で、20数年前に一度
立ち消えになった企画が世紀を跨ぎ、20数年後の今こうして現実のものと
なった事は本当に稀なケースだとパンフでも言われている通り、
そうそうある事ではないでしょう。
しかし稀ではあってもたまたまそうなった訳ではなく、20年以上経ってもなお
今の時代が井上氏にこの作品を書き上げ世に送る事を望んだのだと
思えてなりません。
奇しくも志を同じにする全く同世代の蜷川さんとタッグを組んだ事も、
今もっとも勢いのあるゴールデンエイジの役者たちを牽引する2人の役者
(藤原竜也・小栗旬)がその戯曲の代弁者となった事も、
とても大きな意味があるのだという確信のようなものさえ感じます。

戯曲のベースになっているのは武蔵小説の代表作吉川英治の宮本武蔵。
余りにも有名なこのお話しですが、世間一般で通説とされている武蔵像の殆どは
吉川版武蔵から来るものだとか。
もちろん綿密な研究の元で書かれた小説だからこそ、これ程までに武蔵伝説の基本
とされるのでしょうが、今回の井上版「ムサシ」は吉川版をベースに小次郎が
巌流島の決戦で生き残ったという設定にして、その後の二人を描いた物語。
全く剣の流儀の異なる二人が戦った結果、心理面でも負けた形になった小次郎が、
ただひたすら己の屈辱を晴らす事だけを心の支えに長い年月をかけて
武蔵を捜し続け、ある山奥の小さな禅寺で再び武蔵の前に立った所から
この物語は始まります。

私は武蔵自体正直余り興味が無かったので、知っているのは武蔵が遅刻して
小次郎が巌流島で負けた事くらい(笑)一体それでいいのか??って程の
低レベルの知識ですが、この井上版ムサシはそんな私でも十分に楽しめます。
だって、物語の焦点は武蔵の剣術家としての一代記じゃないから。
予め言ってしまうと物語の焦点は、武蔵と小次郎この2人の対立する剣士を
通して人間の愚かさを観客に再認識させる事に有るから。
繰り返しにはなりますが、人間が出来そうで実はなかなか出来ないある決断
(この文章の上部に太字で書いた事)を観客一人一人が持つ人間の理性に
迫る事こそがこの戯曲の持つ意味であると強く感じるのです。

先日観た映画「重力ピエロ」の中でも、恨みの鎖を断ち切る事の重さについて
考えさせられましたが、先日北朝鮮が行った挑発的な核実験の事実を知った時に、
私の中で湧き上がったはっきりとした嫌悪感も、このムサシの中の断ち切るべき
負の連鎖なのだろうかと悶々と考え込んでしまいました。
唯一の戦争における被爆国としての日本に生きる一人として、
余りにもいたずらに核が扱われているこの事実をどう受け止めたら良いのか
今でも分からないで居ます。
この戯曲の中の井上さんの投げかけたメッセージが普遍的でシンプルなものだけに、
時代を超え今の時代に起きている問題とこうしてダイレクトに結びつき、
その度私に問いかけてくるのです。
犠牲になった過去の人々の後悔や思いを教訓にし、今に生かして行く事が
出来るのは人間に与えられた一つの能力であるという事を彼らに説くのは
愚かな事なのでしょうか・・哀しんでばかりいられないけれど、やはり哀しいです。

更に話は逸れますが、中学生の頃習った家庭教師の学生さんに日本最高学府の
現役学生と、ある有名大学の教育学部の学生さんがいました。
2人とも当たり前のように高偏差値の持ち主でしたが、決定的に違っていたのは
相手に言葉を伝えようとする姿勢でした。
かたや相手の目線にまで下がって自分の言葉でかみ砕いて伝えようとする
先生と、かたや自分が学んできたテキストそのままの言葉で機械的に教える
先生とでは当然の如く受け手の子供(私)の理解度は天と地の差ほどの開きが
ありました。
何でこんな話をしたかというと、井上戯曲の観客へのアプローチは圧倒的に
前者を思い出させるものだったから。
だからといって稚拙な表現などでは無く、人間の倫理を鋭く突いてくる
禅の教えのような深い言葉でしたが、特別な宗教観も持たず
禅にも明るくない私でも贅肉のないシンプルな井上さんの言葉(教え)は
心に響きました。

競争社会の現代、他者に勝つ事だけが自身の存在意義を確認出来る
唯一の方法だという考えの人も当然居るはずです。
勝つ事で得られるものは「富」?「名声」?
・・・それをまるまる否定する気にはなりませんが、この物語の中で
負の鎖に縛られている2人の剣士を必死に救おうとして教えを説くのは皆、
その「富」や「名声」に囚われた結果「後悔」という十字架を背負って初めて
己の愚かさに気付いた過去の人たち。
この事は物語の半ばで恐らく皆さんも気付く事なので、
分かって上で観ても十分楽しめるのですが、
余り詳しく書くとネタバレになるのでここまでにしますね。

というのも、来月7月18日(土)にWOWOWでこの「ムサシ」のオンエアが
決まったのです。
今更こんなレポをアップしたのはそういう事情もあるのですが・・・

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この作品の主役たち、舞台の申し子「藤原竜也」と時分の名華「小栗旬」の共演は
随分前から話題になっていて、旬君ファンの友人もこのチケット取りのためだけに
藤原君のFCに入会する始末。
さすが花沢類!(こればっか)恐れ入りました。
そんなこんなで、私がFCで確保したのは2公演。
本当はもう少し抑える事も出来たのですが、敢えて綺麗事を言うと
プレミア舞台だけに私が繰り返し観るよりも、初めて2人に、
または蜷川演出に触れる人に1枚でも多く渡れば
その方が意味が有ると思ったから。(綺麗事に聞こえるけど結構本心です)
その位、井上戯曲×蜷川演出と藤原×小栗の組み合わせは
意味のある特別なものだと思いますし、観てみてやはりそう思いました。

70代半ばの世間的には老人力の域に入るお二方に共通するのは、
いつの時代もその時代と戦ってきた反骨スピリットを持たれた方だという事。
それをただ一言「元気だ」などと云う言葉で括ってしまうのは余りに愚かな事。
2人の背中を見た周りの誰もが己の姿勢をピン!と正し、
一緒に戦っていきたいと願うのは、その姿勢がどこからみてもブレが無く、
限りなく「本気」だからなのでしょう。
本気と本気がぶつかり合う至福を知っているキャスト、スタッフだからこそ、
例え戯曲の仕上がりがどんなにギリギリになってもそれを待てるのだろうなぁと、
舞台の上の彼らを観ていて伝わってきました。

しかもその待ち焦がれた戯曲の中に、井上さんの目を通して書かれた
役者一人一人の秘めたる一面が反映されていた時の喜びたるや、
まさに役者冥利に尽きるってもんでしょう。
戯曲が上がってきたのは本当ならば稽古の真っ最中であってもおかしくない
ある一日に、キャスト達が連れ立ち鎌倉の井上さんのお宅にお邪魔して
色々とお話しをした後だそうです。
その短い時間の中でそれぞれのキャストが舞台の上で「役」としてどう存在する事が
最も自然なのかを井上さんは素早く見抜かれていたのかも知れません。
例えば藤原君の「不器用さ」。
蜷川さんの言葉をお借りすれば、彼の少しストイックで芝居の事しか考えられなくて
自己表現が苦手な部分や、余計な事は一切口にしない所などが、
井上さんの目を通して今回の藤原武蔵像に見事に投影されていたと云います。
小栗君は、それに相対するように人からどう見られるべきかという
視覚的な部分に敏感な面が、剣さばきも華麗でスタイリッシュだという
小次郎の視覚的特徴に反映されていて、自己表現をすることに長けていて
饒舌という部分も、蜷川さん曰くまさに小栗!だったそうです。

三谷幸喜さんが「新選組!」で藤原君の中に剣の申し子沖田総司の
陽と陰を見たように、井上さんも彼らの秘めたる部分に光を当て
役柄の個性へと繋いだ事で、舞台での2人がより自然なものに映りました。

この舞台を観た後、まだ埼玉公演の最中だった頃、
毎週日曜の早朝に放送されている「ボクらの時代」という対談番組に、
藤原竜也、小栗旬、そして市川海老蔵という3人がやんちゃ対談と称して
2週に渡り出演した際に、上で言っていた2人の特徴が対談の中で
舞台の上以上に顕著に表れていてとても面白かった事を覚えています。
勿論、上演中だった事もあって特に藤原君は役の人格が抜けないようで、
とにかく普段よりも口数が少ない感じがして、そういう意味でもやっぱり不器用。

一方小栗君は、初対面の海老蔵さんにも気後れすることなく
自己アピールが出来ていて、コミュニケーション能力の高さを感じました。
日曜の朝、テレビの画面に映っていたのはまさに武蔵と小次郎そのものでした。
つくづく役者さんって面白い、そう思いました。

最後に少しミーハーな感想を・・・
今回観た2回の公演ですが、実は嘘みたいに対照的な座席だったのです。
最初に観た初日に近い日は2階の最後尾席、メリットは舞台全景が一望できる事。
そして2回目の時の座席はなんと1階最前列のセンター近く!
連れの友人と妹はそれぞれ地獄と天国的な思いをしたかも知れませんが、
両方を味わえた私としては、これ程意味のある極端な環境での観劇は
なかなか味わう事は出来ない!と思いました。
初見の時に目を奪われたのは小栗君の立ち姿の綺麗さ。
よくよく考えてみると、上で書いた人からどう見られるべきかと言う事に気を遣う
小栗小次郎の術中にまんまと嵌ったのだと今頃気付きました(笑)
その後に観た映画「クローズZERO II」でも思ったのですが、本当に漫画から
そのままトレースされて出てきたかのような小栗君の美しいシルエットは
いつ見ても惚れ惚れします。
思えば初回の時は藤原君に関しては彼の発する声に神経を集中させ、
目は小栗君ばかりを追っていた気がします。

そして2回目に最前列で妹と観た時には、偶然2人して同じ事を感じていました。
それは、2人とも気付くと目で追っているのは藤原君だったって事。
別に元はと言えば藤原君のファンだからとか、改めて近くで見た小栗君が
どうだったとかいう理由など一つもないのですが、改めて近くで見ると
どうしてもいつもの事ながら頭のてっぺんからつま先まで
神経を張り巡らしている藤原君の役への入れ込む様が
真っ先に目に飛び込んできてしまうのです。
一度目に入ると後は思うつぼ、延々彼の姿を追ってしまっていました。

今後は2人とも暫くの間舞台よりも映画の比重を増やすつもりなのか、
お芝居の予定は聞こえてきませんが、前にBunkamuraのレクチャーで
ギリシャ悲劇の翻訳者でもある山形先生が言われていた、
いい男が必要不可欠のギリシャ悲劇(笑)や、昔蜷川さんが演出された
ペール・ギュントをダブルキャストで上演した時のような
彼ら互いの向上心をあおるような企画で、またこの2人を観てみたいです。

本当に久しぶりに書いた舞台レビューでしたが、やっぱり生の舞台を
こうして文章で語るのは改めて難しいことなのだと感じました。

観劇から3ヶ月もの時間が経ってしまった少しカビ臭いレビューに
付き合って下さった方がいましたら、心より感謝申し上げます。

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2009/02/20

NODA MAP 「パイパー」 渋谷Bunkamuraシアターコクーン

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野田秀樹の最新戯曲「パイパー」を観てきた。
本当は来週の25日の夜に観る予定だったのが、不注意で他のライブとバッティング
してしまったので、急遽チケット交換サイトで18日のチケットと交換してもらったのだ。
ネット社会の恩恵に与ってるなぁってつくづく感じるのはこう言う時だと思う。

今夜はこまつ座に続き、珍しく一人での観劇。
何となく自分の中で野田作品は一人で観るに限るといった決まり事がいつの間にか
出来上がっていた。
別に人と感動を分かち合いたくない訳では無く、野田さんの舞台は見終わった後
必ずと言っていいほど、その戯曲が訴えるメッセージがどういう意味を持つのかを、
つい突き詰めて考えたくなる衝動に駆られるからなんだと思う。

これから述べる感想が果たしてネタバレになるのかどうかは判りません。
しかし、一切の情報を入れたくないという方はご遠慮された方が賢明かと・・・




「パイパー」について知っていたのはただ一つ、火星が舞台の話という一点のみ。
正直言って生まれてこの方SFというものに一度も興味を持った事がない私にとって、
火星人のお話をわざわざ観に行くなんてあり得ない事の一つだった。
しかし、ここは野田戯曲である。
火星人=SFなんていうシンプルな方程式が成り立つ訳もなく、「オイル」や
「ロープ」同様、未来という設定だけを借りたリアルな今がそこにはあると確信するから
劇場に足を運ぶのである。

舞台は1000年後の火星。
そこに住むダイモス(松たか子)とフォボス(宮沢りえ)という姉妹が物語の
牽引役である。
ストーリーは正直この場で簡潔に説明が出来るほど単純な内容では無く、かといって
難解かと言われるとそう言う訳でもなく、物語の時間軸が色々と飛ぶ事にさえ付いて
行ければ十分に楽しめる内容だと思う。
野田さんの舞台を観る時まず考えるのは、目の前の舞台で起きている事は本当は
どこで起きている事なのかという事。
「ロープ」では目の前のプロレスのリングが実はベトナム戦争の戦地であり、
そこで熱狂している役者は現代(いま)を生きる私たちの愚かしい姿だったりする。
今回も観ていて気になるのはやはりその設定だった。
今回のキーワードの一つに「数字」がある。
「数字」が持つ怖さや不確実性、数字に依存し冒されてゆく人間の愚かさ。
舞台上で「数字」は、幸せの度数を測る数値として舞台の上の登場人物を
翻弄させる。
物語の進行と共に、舞台上の設定がほんの一部のエリート達に情報操作
された北朝鮮の市民の現状にも思え、そこに行けば必ずや地上の楽園が
存在すると信じ、ひたすらに国家元首を崇拝してきた彼らの悲劇にも映り、
さらに進むともっと大きな規模の「地球」単位の問題に感じられるようになってくる。
自然破壊や数字至上主義ともいうべき実体のない社会の脆さを言っているのか、
今まで観た野田作品ほどテーマが凝縮していないような印象なので、
メッセージに対するこれだという確信は持てないけれど、
気の遠くなるほど先の1000年後の火星と2009年を生きる我々の現代が
危うい糸で繋がっているという事だけは判った。

自分の身に起こっている問題を先送りにしようとする無責任さを「今」
終わらせないとどんな事が起こるのか・・皆誰もがうすうす感じているのに
何もしようとしない鈍さを恥じるべきだろう。
この状況を誰かが助けてくれるなどと思っている事のツケは確実に返ってくる。
そう思いながらふと、この問題に最も危機感を感じているのは今の若い世代で、
鈍い人種の多くは私を含む昭和生まれの世代の事なのではないかと気付く。
今の若い世代は他者に期待できない環境で育ってきた分、不確実なモノに対し
非常に醒めた目を持っていると感じることがある。
「個」が必要以上に確立していて他者との繋がりを拒否していたり、
自分の未来に対し「夢」を持てない環境かと思うとそうでもなく、
しっかりと次の時代を見据え自然や人間社会に還元できる事は何かを
しっかりと考えているのが次世代のスタンダードだったりするのが面白い。

・・・と、話は変にずれてしまったので少し戻そう。

ところで、話の中に出てくるパイパーは一体何だったんだろう。
パイパー、この「笛吹き」という意味を持つ存在は見終わった後も
何物だったのか判らなかった。
もしかして、笛を吹きながら民衆を扇動し、やがて破滅へと導いた
得体の知れない存在の事をさしているのだろうか・・
そんな事を思ったりもしたが、舞台を観る限り民衆を扇動しているのは
「数字」である。
始めは友好的で幸せの象徴だったパイパーが、やがて荒廃し人の命を
脅かす存在になってゆく。これはどういう意味を持つのか・・?
やっぱり、この場で言葉で簡単に説明できるほど私はその正体の尻尾を掴んでは
いないのかも知れないので、どなたかご覧になってその尻尾を掴んだ方がいたら
是非教えて頂きたい。

出演している役者さんは、松たか子さん、宮沢りえさん、橋爪功さんとどなたも
野田戯曲を心底愛している方ばかりで、最高の代弁者ばかりだった。
松さんはいつもながら口跡の良い台詞で言葉の洪水を上手にまとめ観客に正確に
伝えていたし、りえちゃんは変幻自在の声色を駆使し、時間軸を自由に飛び回って
いた。
現在の演劇界における若手女優の双璧が力を競っている、
そんな贅沢極まりない舞台だった。
橋爪さんは昔一度だけ映画でご一緒した事があったが、その時に感じた
柔軟な印象のまま、意気の良い若手の役者の間を飄々とすり抜け、
重くなりがちなテーマに軽妙な風を送ってくれていた気がする。
大好きな役者さんの一人である。

舞台自体も映像を駆使し、複雑な時間構造を明解に説明する役割をしていたのも
良かった。
いつも楽しみなひびのこづえさんの衣装は、アンサンブルの役者達が着ていた
赤茶と鮮やかなブルーの衣装がキレイで印象的だった。

最後に一つ、私が観に行く数日前にりえちゃんの妊娠&結婚が報道された。
この物語をりえちゃんのお腹の揺りかごで聞きながら、お母さんと一緒に疑似体験
している赤ちゃんの目には何が映っているんだろう。
現在の我々に対し決して遠くじゃない未来への警告と、生ぬるい我々への
警鐘を鳴らすこの戯曲の意味を、子を宿した母としてのりえちゃんが
どんな風に感じているのか今の彼女だから感じているだろう言葉を
聞きたくなった。

次は来月7日の井上ひさし書き下ろし、蜷川幸雄演出、藤原竜也&小栗旬の
「ムサシ」が待ちかまえている。
「天保十二年のシェイクスピア」以来のプラチナチケットのこの舞台。
才能と才能のせめぎ合いを、心して観に行かねばと思っている。

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2007/04/01

「恋の骨折り損」レクチャーレポ by しふぉんさん

先日の金曜、30日の前楽日にやっと観る事が出来た彩の国シェイクスピアシリーズ最新作「恋の骨折り損」は、オールメールシリーズならではのテンポの良さとスピード感の有る舞台で、休憩を挟んで三時間半近くある長丁場にもかかわらず役者の力で一気に見せる気持ちの良い舞台でした。

その舞台観劇に先駆けて、いつもコメントを下さる方のお一人であるしふぉんさんが、3月19日の私の記事にコメントして下さった文章を今回はご紹介させて頂ければと思います。
コメントという形での公開ですとどうしても目に触れづらい事もあり、なかなか参加する事の出来ない貴重なレクチャーのレポですので、しふぉんさんに無理を言って転載させて頂く事になりました。

なかなか聞く事の出来ないNINAWAGA STUDIOの高橋洋さんの蜷川さんとの出会いのエピソードや、洋さんのシャイな素顔のようすなど、しふぉんさんの詳細なレポのお陰で手に取るように判ります。
洋さんの口から出た藤原君を「竜也」と呼ぶ様子は是非生で聞きたかったです!

では、まずはレポ第一弾からどうぞ。

昨日22日「恋の骨折り損」の朝日カルチャー講座に参加してきました。
初めての埼玉芸術劇場は、かなり遠かったです。
でもでも一日かけて行った収穫大でした。

松岡先生のプレレクチャーは、韻をふんでいるシェイクスピアの原作を日本語に翻訳すること、そして、それを舞台用の台本に仕上げることの難しさのお話がとても興味深かったです。
そのレクチャーのお陰もあって、その後観た舞台は、文句なく楽しい演出の連続で満足できました。
生の舞台を観て、心から「楽しかった~」と思えたのは、初めての経験でした。

そして、すぐ後の「松岡先生と高橋洋さんのトーク」。
洋さんは、今回かなりの量の台詞をこなされています。その直後のトーク。相当お疲れだったのではと思います。
とてもシャイなのか、はたまた大勢の女性の視線に戸惑われたのか、トークの間中、松岡先生と視線を合わせることはあっても、ほとんど会場を見る事はない洋さんでした(笑)
ただ、最後に数人から質問コーナーがあったのですが、その時には、質問された方のお顔をしっかりと見て話をされていました。実は私もちゃっかり質問してしまいました。アハハ。

就職活動をしないまま大学を卒業し、すぐに役者になろうと決めてニナガワスタジオの試験を受けられたそうです。その時に事前に渡されていたのが「竜也のやった『弱法師』の台詞でした」とのこと。
「じゃくほうし」という話だと思っていたということ。
「目が見えない役だとは知らずに、台詞を言う時におもいっきり目を見開いていた」こと。
蜷川さんにひと言「(大学を出た年に就職もしないでこんな所に来て)親大丈夫なの?」と聞かれて「はい!大丈夫です」と答えたら合格していたこと・・・・笑いの連続でした。
昨日の舞台で、突然、松岡先生とも協議の上で、洋さんの台詞の一部が変えられるというハプニングがあったそうです。
「稽古を経て初日を向かえ、そして数日経ち、もう全ての台詞が体に入っているこの時に、たとえ一部分でも台詞が変わるというのは、役者にとってかなりキツイことです。」と話されていました。でも変えたことで、更に芝居の流れがよくなったそうです。
ひとつの舞台が出来上がって変化していくプロセスをお二人の話で、感じることができた有意義な一日でした。

追加の第2弾レポです。

映像ホール(だったかな?)という、ゆるい階段状になった会場でのトークでした。聴講する私達が、ステージ上の松岡先生と洋さんを見下ろすような形になりました。
舞台の幕が降りてすぐの時間でしたが、洋さんは、黒のジャケットに白いTシャツ(胸に模様がありました)、ジーンズに黒っぽい革の紐靴というさっぱりとした普段着での登場でした。
椅子に腰掛けるとすぐにテーブルにあったペットボトルの蓋をあけ、そのまま口に運び「ごくごく」・・・汗をかいて喉が乾いておられたのだと思います・・・・が、そこで横にあったコップに気が付かれて、「あっ!」という表情をされて、ボトルの水をコップに注がれていました(笑)

lou_tanさんが、おっしゃるように私も「竜也が・・・」というのを聞いた時には、ドキっとしました。「へぇ、洋さんってそういう風に竜也くんの事を呼んでいるんだぁ」と、なんだかうれしくなりました。

試験の時には、他の方は「弱法師」の作品を事前に読んで役作りをして望まれていて、そのため黒いサングラスをかけていた人が、何人もいたそうです。与えられた台詞しか読んでいなかった洋さんは、盲目の人という設定を知らずに「あの人達、何でサングラスなんだろう???」と不思議に思ったそうです。

洋さんにしても、竜也くんにしても、その原石のような才能を瞬時に見出した蜷川さんって、つくづくすごい人なのだと思いました。そして、その蜷川さんの眼力のお陰で、今私達は、こうして楽しませてもらえているのだと、改めて感謝した一日でした。

しふぉんさん、ホントにありがとうございました!<(_ _)>

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2007/02/15

ヘドウィッグ初日


今、『ヘドウィッグアンドアングリーインチ』の初日から戻って参りました。
ライブ形式の芝居っていう特殊な形態の舞台に、まだ客の方がどう受け止めたら良いのかが分からず戸惑っている感じでしたが、こういう芝居は回を重ねる毎に変わって行き、客が育って行く芝居だろうから楽しみ。

山本耕史は登場してしばらくは、三上博史みたいな猥雑さや淫靡な毒が無い分、初めは弱いかなぁ…とか感じたけど、そこはロックチューンを無理なく歌える強みで、最後は納得させられた感じ。
これから行く方期待して良いですよ。

ありゃ正直座って観る芝居じゃないですね。
一曲目から自然に身体が反応して、思わずヘッドバッキングしてしまいました。
…とはいえ、後ろの方に申し訳ないので全編通してスタンディングとはいきませんでしたが…
 
家に戻ると、私の夕飯のおかず(ブリの照り焼き)をこんなポーズで心待ちにしている愛猫るぅたんが待ちかまえていました。
今、焼くから待ってて、るぅたん!
ヘドウィッグ初日

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2006/12/07

「ロープ」に触れると(1)

NODA・MAPの新作「ロープ」の初日に立ち会ってきました。
2時間ちょっと休憩なしのこの舞台を見終わった後、私は頭の中で同じ言葉をひたすら繰り返していました。

しっかり生きて行きますから ——

何だか稚拙な言葉でしか表現出来ず恥ずかしいのですが、この「しっかり」という何とも曖昧な言葉の中に、舞台を観て心を揺り動かされた私のその時の押さえきれない衝動が沢山詰まっていたはずです。Cni23000

何をどう「しっかり」してゆかなければと思ったのか ——
言葉にすると薄っぺらい正義を振りかざすようで上手く言えないけれど、人として本当の意味でインディペンデントするぞと言った気持ちなのですが、う〜ん・・これじゃぁ伝わりませんよね?

私はこの世に生を受けて以来、それなりの年数を生きてきました。
その決して短くはない時間の中で培った、自分なりの他者に対する視点と云うものがあります。
その視点は自分では自己の思考の過程から生じたモノだと思っていても、実のところは世間の意識のうねりによって刷り込まれた視点であり、その時点で自己の冷静な視点では無くなっている事が多々あるという事に「ロープ」は気付かせてくれました。
その視点はいつしか「暴力」というモノに形を変え、まるで自分の意見であるかのように声高に他者を排除しようとした事もあったはずです。

例えば、9.11の崩れ落ちるWTCを観た時 ——
例えば、イラク人質事件の際の帰国した三人の日本人に対する自己責任論の論調に晒された時 ——
例えば、秋田で起きた子殺しをした母親に対する報道に接した時 ——

これらの実態のない「正義感」、何かに煽動されるように湧き上がる「不気味な一体感」は、その多くが報道と云う名を借りた「mass = 集団、多数、大衆、群衆」の力によるものが多く、そんな時自分の視点で意見を述べる一握りのマイノリティは徹底的に糾弾されるのです。
そんな光景を今まで何度と無く繰り返し観てきた気がします。

野田さんはこの「ロープ」の中で、「距離感のない熱狂の中で、繰り広げられる暴力」を描いたのだとパンフの冒頭で述べられています。

舞台の導入が「プロレス」というショーアップされた特異な世界から始まる為か、観客は
舞台の上で行われているプロレスのアクロバティックな動きと、それを扇情的に盛り上げる宮沢りえちゃん演じるタマシイの実況アナウンスに、そこで野田さんが描こうとしている「暴力」の姿を一瞬見失います。
でもやがて、自分が姿の見えない何者かに踊らされているという事に気付き始めた登場人物達が、自分が足を踏み入れてしまった「恐怖」に気付いて行くくだりでは、自分がその登場人物の中に居る気がして背筋が凍る程恐ろしく、自分の愚鈍さを思い知らされる思いがします。
観客の中で「自分はあいつらとは違う」と断言出来る人間は本当に居るのでしょうか?
野田さんでさえも居心地の悪さを頭半分で感じながら、熱狂の中に身を置いた事があるのだと語っています。
その居心地の悪さの先には「暴力」があり、それはやがて「戦争」へと姿を変えて行くのだという、人間の愚かな過程を舞台の後半では怒濤のように観客に見せつけるのです。

さっきまでヘラクレス・ノブナガを演じる藤原君のはっちゃけたキャラに大笑いし、愛されるヒールになりたいのだと切望する宇梶さん演じるグレイト今川の滑稽さに手を叩いて笑っていた私は、まるでグイッと襟元を掴まれたまま目の前で起きている地獄絵図のような戦場に放り込まれたような気になりました。

10代の頃に観た野田さんの舞台は「彗星のジークフリード」1本だけだったと思います。でも正直言ってどんな内容だったかも印象に残っていないのです。
覚えているのは野田さんが前日に大怪我をして円城寺あやさんが代役を務めたというアクシデントだけ。
青臭く世の中を斜に構えて見る人種が嫌いだった私は、「熱」を感じないものには興味を示せなかったのだと思います。
だからこそ蜷川さんや唐さんの芝居を必死に後追いするように観まくり、60年代〜70年代の熱狂にとにかく少しでも触れたかった。
そのころの野田さんの作品は私には難しすぎて、根底に流れる「熱」を汲み取る事が出来なかったのかも知れません。
「オイル」を観て感じた野田さんに対するイメージの違和感を「ロープ」でも再び・・というか更に強く感じました。

拳を振り上げ異を唱える「勇気」を賛美するような熱さとは違う野田さんの持つ「冷静な熱さ」は、私たち人間に与えられた生きて行く為の最後の理性だと思います。
過去の愚行を繰り返さない為にも、この事をいつも頭の片隅に置いておかなければならないのです。
それをこの二時間余りの舞台で我々に伝えようとする野田さんが、何だかとても愛おしく大事なものに思えてなりませんでした。
カーテンコールの時、私が心から拍手を送ったのは野田さんです。
大好きな藤原君よりも、舞台上の姿を熱望していたりえちゃんよりも、私の視線は野田さんの姿を延々と追っていました。
勿論りえちゃんも藤原君も誰もが野田さんのメッセージを伝える語り部となって、見事に演じ切ってくれました。それでも初日の今夜の私の拍手は野田さんの為の拍手でした。
まぁ、野田さんは安っぽいスタンディングオベーションはお嫌いでしょうから、決して立ちませんでしたけど・・・(笑)

そしてロビーに出た私はアンケートの余白にこう書きました。

「しっかり生きて行きますから」 ——

きっとこれだけじゃ何が何だか分からなかったと思いますので、その後に上で書いたような事を少し書き加えましたが、恥ずかしいけれどこれがその時の私の精一杯の返答でした。

会場に入ってパンフを買ったら、表紙の覆面の奥にある二つの目を見て下さい。
決して失ってはならない、決して忘れてはならないこの目に対し、いつまでも真っ直ぐに向き合える事を心に誓える人間でありたいと心から思います。

ネタバレのようで、何を書いているのか観た人じゃないと分からない駄文を書きなぐって本当にスミマセン。
しかも、藤原君に全く触れてないし・・・(汗)

今回は12月に2回、1月に2回の計四回。
次の20日の公演まで待ちきれずにまた書くかも知れませんが、今日はここまで。

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2006/09/14

オレステス第一夜 last

「オレステス」第一夜 9/8 Fri. 夜の部 XC列(下手側)

Part 3 ——


レクチャーの中で山形先生が言われていた、繰り返し蜷川さんに他の作品に
するように薦めた懸念していたポイントはどうだったのでしょうか?


※いつものように「ネタバレ」前提ですので、気になる方はご遠慮下さい。

続きを読む "オレステス第一夜 last"

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2006/09/13

オレステス第一夜 Part2

「オレステス」第一夜 9/8 Fri. 夜の部 XC列(下手側)

Part 2 チェックポイント ——

ではいよいよ本題(じゃぁ、今までは何だったんだ?)9/6のブログに挙げた幾つかのチェックポイントを中心に考えてみたいと思います。

ポイント1■オレステスが「復讐の女神」に出会い恐怖に怯える場面は
      どうだったか

ポイント2■オレステスとエレクトラ姉弟の近親相姦っぷりと、
      オレステスとピュラデスの心理的同性愛はどう演じられていたか

ポイント3■ラストの「神」の登場シーンでいかにして観客を白けさせずに
      引きつけるラストを演出するのか。

※いつものように「ネタバレ」前提ですので、気になる方はご遠慮下さい。

続きを読む "オレステス第一夜 Part2"

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